滝川 忠征(たきがわ ただゆき)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。江戸時代の旗本、後に尾張藩家老。通称を彦二郎(彦次郎)、初名は法忠(のりただ)または盛勝(もりかつ)。
略歴
尾張国中島郡稲島村の出身[8]。木全忠澄の子。父は槍の名手で、初め織田信長の家臣であった浅井政貞に仕え、次いで滝川一益に仕えて、忠征は少年にして驍勇の聞こえがあって[9]、しばしば忠功を立てたことを以て、滝川の家号を与えられて滝川姓を称するようになった。
滝川一益に従って各地を転戦し、天正2年(1574年)の第三次伊勢長島攻めで香取口で戦い、勢州中江・柳嶋・白山の崎で槍を振るう。伊勢太田城と小稲葉城の城攻めにも加わる。翌年3年(1575年)、河内国高屋、摂津国大坂、三河国長篠(長篠の戦い)、越前国吸津や倉谷、加賀国篠谷などに出陣した。
天正4年(1576年)の石山合戦では勝鬘院での戦いで首級をとった。天正5年(1577年)には雑賀攻めに従軍して負傷。
天正6年(1578年)、織田信忠に従って神吉城包囲に加わり、敵地で青田刈りの作戦中に志方城から出撃した敵に囲まれて重傷を負うが日置加平次と2人で奮戦して自力で脱出した。
天正7年(1579年)、信長は滝川一益に命じて伊賀国府中の3つの城を攻めさせたが、この1つを忠征が落とした。(第一次天正伊賀の乱)
天正10年(1582年)3月、一益が信長から信濃国のうち二郡と上野一国を与えられるとこれに従い、上野国新田に所領を持った[13]。
同年6月、本能寺の変が起こって北条氏直が敵対してくると、このとき忠征は病気だったので松井田城の守備に残されて人質の監視を命じられ、次いで滝川と小田原北条氏の戦い(神流川の戦い)の際は、滝川の本拠の上野国厩橋城の守備を任された[14]。
天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いに前後する滝川と羽柴秀吉との戦いでは関城を守り、羽柴秀吉の軍と戦った。戦後、敗北した滝川一益が所領を全て失うと、忠征は秀吉に仕えた。天正12年(1584年)6月、秀吉と徳川家康との争いの中、尾張蟹江城で徳川勢を迎え撃って敢闘し、松平康安(善兵衛)と槍を合わせた。
秀吉の下では、金切裂指物使番を勤め、普請奉行となった。
天正18年(1590年)の秀吉による小田原北条氏攻め(小田原征伐)では、前田利長・木村重茲の軍勢の目付となり、武蔵国八王子城攻めに一番乗りをして先登(せんとう)の手柄を挙げた。また忍城にも、検使として派遣された。忍城寄せ手の浅野長政が敗走すると、忠征は民家に火を放ち、出撃してきた城方の成田勢を撃退した。
文禄元年(1592年)の文禄の役では肥前に赴いて名護屋御留守番陣衆として警備にあたった。文禄3年(1594年)の伏見城普請でも佐久間政実ら6人と共に普請奉行を務めた。
慶長2年(1597年)6月に美濃国加茂郡・(摂津国)川辺郡で700石を加増され、併せて2,000石となった。9月に従五位下豊前守に叙任された[16]。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に与して、伏見城の戦いに参加した。しかし終戦後の減知改易などの咎めはなく、徳川家康に召されて仕え、(摂津国川辺郡・美濃加茂郡・丹波国船井郡・近江国蒲生郡内にあった)所領2,010石余を安堵された。家康の御使番に任じられたとされる。
天下普請として、慶長12年(1607年)の駿府城の普請奉行、慶長15年(1610年)には名古屋城の普請奉行に名を連ね、この時、家康と徳川秀忠よりそれぞれ御内書を与えられて賞され、帷子胴服を賜った。慶長19年(1612年)には高田城の普請奉行を伊東政世と共に務めた[18]。
元和2年(1616年)、家康の遺命により、尾張藩の大納言徳川義直に属して家禄6,000石を賜り、藩の年寄(家老)となった[16]。
嫡男法直は既に死去していたため、元和8年(1622年)に10歳となった孫の直政(母は日向国飫肥藩主伊東祐兵の娘)を将軍秀忠に直に拝謁させ、寛永2年(1625年)に朱印状によって許可を得て、この孫を養嗣子とした。寛永9年(1632)冬に隠居して所領を継がせた。義直は隠居料として采邑1千石を忠征に与えた。
寛永12年(1635年)2月2日に77歳(『寛永諸家系図伝』によれば78歳)で病死し、南桑名町(伏見町)の大林寺に葬られた[16]。戒名は前豊前守滝川大林宗機居士。大林寺は、戦時疎開によって墓や本堂を移転しており、現在は千種区城山町にある。
脚注
参考文献
外部リンク