満川 亀太郎(みつかわ かめたろう、1888年1月18日 - 1936年5月12日)は、日本のジャーナリスト・アジア学者・思想家。大阪府出身。
経歴
早稲田大学を中退後、新聞記者を経て老壮会の世話人、さらに大川周明や北一輝らとともに猶存社を結成。猶存社解散後は安田共済事件まで行地社に所属するなど、アジア主義に立脚した国家改造運動をすすめた。拓殖大学教授。
交友関係
大川や北らをはじめとするアジア主義者や国家主義者、政界・官界・軍部だけではなく、社会主義者やデモクラットらとも幅広い親交を結んだ。大川と北とは、思想的に対極に位置するが、一時期、二人は行動を共にした。これは、二人の間を穏やかで世話好きな満川が二人の間を取り持ったからである[1]。
思想ならびに業績
- 1919年(大正八年)5月には、「何故に過激派を敵とする乎」と題する文章を発表し、ソ連政府を承認すべきことを訴えている。
- 国立国会図書館憲政資料室は、満川の日記・原稿類や周辺人物からの書簡などをまとめた「満川亀太郎関係文書」を所蔵・公開している。
関連文献
著作
伝記
関連項目
脚注
- ^ <<田原総一朗>>著『日本近現代史の「裏の主役」たち』440頁
外部リンク