渡辺 浩太郎(わたなべ こうたろう、1904年(明治37年)2月17日[1] - 1994年(平成6年)11月28日[1])は、日本の政治家。新潟市長、全国市長会会長。
経歴
新潟県中蒲原郡石山村中野山(現新潟市東区中野山)で生まれる[2]。新潟県立新潟中学校を経て、1927年、慶應義塾大学政治科を卒業[1][2]。
卒業後に帰郷し、1929年に石山村助役に就任[1][1]。その後、同村会議員を務め、1943年、同村が新潟市と合併後に新潟市議会議員(就任時は新潟市会議員)となり、この間、同議長を三期務めた[1][1]。
1959年5月2日、新潟市長に就任し、1975年5月1日まで市長を連続4期務めた[1][1]。新潟大火・新潟地震からの復興、地盤沈下問題への対応、ガルベストン市(アメリカ合衆国テキサス州)・ハバロフスク市(ソビエト連邦)との姉妹都市提携、スポーツ音楽都市宣言などを推進した[1][1]。また、1972年から3年間全国市長会会長を務めた[1]。
脚注
- ^ a b c d e f g h i j k l 『現代物故者事典 1994~1996』628頁。
- ^ a b 『日本の歴代市長 第2巻』51頁。
参考文献
- 歴代知事編纂会編『日本の歴代市長 第2巻』歴代知事編纂会、1984年。
- 『現代物故者事典 1994~1996』日外アソシエーツ株式会社、1997年。