渡辺 始興(わたなべ しこう/もとおき、天和3年(1683年) - 宝暦5年7月29日(1755年9月5日))は京都出身の江戸時代中期の絵師。通称求馬。狩野派や大和絵など多様な様式で描いたが、一般に琳派の絵師に分類されることが多い。
略伝
宝永5年(1708年)頃から東宮御所や近衛家に仕え、二条家など上流貴族の屋敷に出入していた。初め狩野派、ただし画風から京狩野ではなく、狩野探幽の流れを組む江戸狩野に学んだと考えられる。師は、後に始興の障壁画を鶴沢探索が補作していることから、その祖父の鶴沢探山[1]、あるいは後に述べる渡辺始興・素信同一人物説から山本素軒とも言われる[2]。のちにそれに飽きたらず、晩年の尾形光琳に師事したとする説が有力である[3]。また宝永年間、尾形乾山の絵付けを手伝っていた渡辺素信は始興と同一人物であるとする説もある[4]。他にも大和絵の画法も研究し、「春日権現霊験記絵巻」「賀茂祭絵巻」「八幡太郎絵詞」などの立派な模本を残している。近衛家熈の指導もあって写生画にも先鞭をつけ、実証的・客観的な観察に基づく細密な写生を試みた。菩提寺は近衛家の墓所でもある西王寺。戒名は環翠軒輪誉法雲居士。
画風とその影響
始興の画には終生、狩野派風、琳派風、或いは大和絵風の作が別々に併存した形をとり、それらが一つとなり独自の画境として結実されずに終わってしまった感がある。これは始興の庇護者であり、狩野尚信の絵を特に好んだ近衛家熙の嗜好のためと言われる[5]。ただし、全般的には琳派風を志向した作品に優品が多い。光琳と比べ、構成的な斬新さに劣るが、色彩の艶やかさが増し、光琳から学んだ装飾的手法を写実的に生かすことで、琳派の装飾性に活き生きとした生新しさを加えている。
後の円山応挙は始興の「鳥類真写図巻」(1巻紙本著色、三井記念美術館蔵[6])を模写しており、また同じく始興の作「芭蕉竹に仔犬図屏風」(六曲一双紙本墨画、大和文華館蔵)における仔犬や芭蕉・竹の描写は、技法・図様共に応挙画と極めて近く、応挙が始興から受けた強い影響が窺える。始興の没後、京都画壇には次々と個性的な絵師が登場するが、彼らの絵画表現は既に始興作品の中に萌芽が表れており。始興は京都画壇興隆の先駆的役割を果たしたといえる[7]。
代表作
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興福院霊屋襖絵(松に百合図)
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吉野山図(部分)
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脚注
- ^ 土井次義「渡辺始興展に寄せて」『花鳥山水の美 桃山江戸美術の系譜』において、両者の関係を間接的に指摘している。
- ^ 相見香雨「渡辺始興と乾山」(『大和文華』23号所収)で参照されている山本臨乗という人物の手記に、渡辺始興の略歴が記述され、素軒の「もとおき」と、素信の「もとのぶ」との訓読みが共通し、始興も「もとおき」と訓ずることで師弟関係を示唆する、という見解が述べられている。
- ^ 江戸期の画伝類の記述より。『本朝古今書画便覧』(文化15年(1818年)刊)に「初め画を狩野家に学、後光琳を師とす」、白井華陽著『画乗要略』では「初学狩野氏、後参以光琳」、『古今墨蹟鑑定便覧』(安政2年(1855年)刊)には「始め狩野風を学び、又光琳を学ぶ」、「光琳印譜」(『古画備考』所収)でも「光琳門人」とある。ただし、光琳師事説の具体的な史料は確認できない。
- ^ 「銹絵蘭石図」角皿(根津美術館蔵)裏面の墨書銘に、乾山が自分の筆より優れた「画師渡辺素信」が描いたことを記しており、この染付と始興の「墨蘭図」(個人蔵)と共通性が見られる。
- ^ 『槐記』には、狩野派に関する所見が散見され、特に尚信は絶賛に近いのに対し、光琳には殆ど触れていない。そのためか、始興は後世の画伝類でも、「自ら尚信の画風を好む」(『本朝古今書画便覧』)、「観其(始興)山水、殆与尚信争先」(『画乗要略』)と評されている。
- ^ 清水実 「[資料紹介] 三井記念美術館所蔵 「紙本著色 鳥類真写図巻 一巻 渡辺始興筆」『三井美術文化史論集』第11号、2018年1月1日、pp.11-70。
- ^ 中部義隆「渡辺始興をめぐって」『渡辺始興 --京雅の復興--』展図録、p.12。
- ^ 佐賀県美術館編集・発行 『企画展 近世の肖像画』 1991年10月9日、pp.75。
- ^ 朝日新聞社編集・発行 『特別編 ランゲン夫妻の眼 初公開 欧州随一の日本美術コレクション』 1999年10月8日、pp.88-89,129。
- ^ Gift of the Norweb Foundation
参考資料
ウィキメディア・コモンズには、
渡辺始興に関連するメディアがあります。
- 画集・展覧会図録
関連項目