清泉寮(せいせんりょう)は、山梨県北杜市高根町(旧北巨摩郡高根町)清里にあり、キープ協会により運営されている宿泊研修施設である。濃厚なソフトクリームが有名。標高1,380mに位置する。
概要
清泉寮は、現在ではロッジ、コテージ、レストラン、キャンプ場などを有する宿泊・研修施設であるが、建設当初の1938年(昭和13年)は、清里開拓の父と呼ばれるポール・ラッシュが指導したKEEP(Kiyosato Educational Experiment Project:清里教育実験計画)の一環としての日米協会青年活動によるキリスト教研修の中心施設であった。当時まだ貧しかった山梨県のこの地に大きな可能性をもたらし、キリスト教信者のみならず多くの人をひきつけた[2]。清泉寮という名称は、1937年(昭和12年)秋に現地を視察した立教大学の高松孝治教授司祭により名付けられた。高松は、「キャンプは清里駅から上っていくが、地番は大泉村に入っている。それなら両方を取って清泉寮としたらどうか」と提案したという。
沿革
役割
青少年訓練キャンプの拠点として
八ヶ岳の南麓に広がる清里高原は、標高1,000~1,900mにわたる火山斜面で、近代には原野が広がっていた。本格的な入植がはじまる1938年(昭和13年)以前の清里高原は、「念場ケ原山」と呼ばれる周辺11か村の入会林野であった。小河内ダム建設に伴う1938年の水没者28戸62人の入植を皮切りに戦時中・戦後も疎開者・引揚者などによる大規模な開拓入植が2度あった[8]。
八ヶ岳火山斜面は、pH3.0~4.2の強酸性であり、栽培できるものはソバ・アワ・ヒエ・モロコシなどの雑穀と、ライ麦・バレイショ・大豆・小豆などの自給用作物に限られていた。石灰をまいて中和しても効果はほとんどなく、栄養失調や過労で倒れる者も多かった[9]。
同じころ、アメリカ人ポール・ラッシュは聖アンデレ同胞会の夏の修養道場で「キリストの御国を日本に広げるための青年リーダーを清里で訓練したい」として1936年(昭和11年)暮れ頃から山梨県庁と用地交渉に取り掛かった。ポールは富士山が好きということもあり、当初、富士北麓の富士五湖地域での用地取得を望んでいた[10]。しかし、適地がなく、結果として八ヶ岳南麓の県有地が1938年1月~1940年3月末まで貸与されることとなった。はじめて訪れた清里から見た八ヶ岳南麓の壮大な景色、真正面の神々しい富士山にしばらく口が開かなかったという[10]。そして「日本聖徒アンデレ同胞会指導者訓練清泉寮キャンプ場」として青少年訓練キャンプの拠点となったのが清泉寮であった。
KEEP計画の中心施設として
念場ケ原120haに及ぶ県営開墾は1936年(昭和11年)8月13日から着手された。1942年(昭和17年)に第二次世界大戦のためポールが強制送還されるが、終戦後の1946年にはGHQ将校として再来日する。1947年に斎藤昇山梨県知事の善意により、90万坪(約300ha)がモデル農村コミュニティー用地として県有地が貸与された[11]。翌1948年、日本の農村のモデルとなるコミュニティーづくりを目指して、「キープ協会(Kiyosato Educational Experiment Project=KEEP;清里教育実験計画)」を設立した[12]。この際、拠点となったのが清泉寮であった。
戦後日本において、清里高原のような高冷地での開拓は雑穀作りを主眼としていた。しかし、ポールは酪農こそ高冷地にふさわしいとの直観があり、農林省から50万円(当時)の融資を受け、60頭の乳牛を飼育し始めたものの良い種牛がおらず、うまくいかなかった。1953年(昭和28年)には凍霜害で畑作物は全滅に近い被害を被った。このことが農家を耕種農業から現在に至る酪農へ転換させる転機となった。
観光研修施設として
清里の観光地化は1950年代に始まり、登山道が整備され、山梨県営のスキー場、キャンプ場などがオープンした[13]。1960年代には国鉄小海線の北側の県有林が別荘団地と学校寮団地として開発された。この頃、酪農への行き詰まりも発生し、牧場民宿の発達の起爆剤となった。1978年(昭和53年)7月1日には清里に最初のペンションが誕生し、民宿を追い抜く勢いで急増し、1980~90年代にかけては清里観光のブームが巻き起こり、メールヒェンチック[14]なイメージが形成された。この渦中で清泉寮は清里の一大観光研修施設となっていった。
2006年(平成18年)9月には財団法人地域活性化支援センターにより「恋人の聖地」に選定された。
シンボル
清泉寮旧館や清泉寮ジャージーハットなどの前面には「X」字のようなシンボルが掲出されている。これは清泉寮を創設した「日本聖徒アンデレ同胞会」のシンボルである聖アンデレ十字である。X字型の十字架で処刑されたとされる聖アンデレに由来する。
施設概要
- 客室[15]
- 本館 - 洋室・和室35部屋、コテージ15棟
- 新館 - 洋室・和室20部屋、温泉棟
- ユースキャンプ場
- 自然学校 - 洋室・和室22部屋
- 会議室・レストラン等
- 本館 - ホール、研修棟、レストラン
- 新館 - ホール、小会議室、レストラン、カフェラウンジ
- ユースキャンプ場 - 大小ホール、多目的広場
- 自然学校 - 研修・会議室5部屋、食堂
- 屋外施設等
- ポール・ラッシュ記念館
- 多目的広場、自然歩道、屋内運動場
- アメリカンフットボール用フィールド
- 清泉寮パン&ジャム工房
- 清泉寮ジャージーハット
- キープファームショップ
隣接する施設
- 山梨県立八ヶ岳自然ふれあいセンター
- キープやまねミュージアム
ソフトクリーム
現在に至るまで清泉寮ソフトクリームはポール・ラッシュが生みの親であり、清泉寮を訪れる上で観光要素のひとつとなっている。
清泉寮ソフトクリームは、1976年(昭和51年)初夏、清泉寮の喫茶メニューとして作られた[16]。当時250円のジャージー牛乳を使用した濃厚なソフトクリームは、カレーライスが600円の時代には高価であった。しかし、「濃厚でおいしい」と、八ヶ岳の登山者やユースホステルの宿泊者の口コミで人気が広がった。
アクセス
鉄道
自動車
脚注
- 注釈
- ^ 佐々木(1998):31ページ及び国際人流編集局(2008):3ページでは、それぞれケンタッキー州ルイビル市、ケンタッキー州生まれとなっているが、ケンタッキー州は育った場所である。
- 出典
参考文献
- 国際人流編集局編(2008):戦後の農村復興に生涯を捧げたポール・ラッシュ―「清里開拓の父」の意志を受け継ぐ キープ協会の国際協力活動. 国際人流, 21(9):3-5. 財団法人入管協会発行.
- 佐々木博(1998):イメージが創った観光地清里高原. 人文地理学研究(筑波大学), 22:27-57.
- 山本剛史郎(2008):〔書評〕ポール・ラッシュ著 飯田徳昭訳『日本聖公会 ポール・ラッシュ報告書』. 立教大学出版会、2008年. キリスト教学(立教大学), 50:183-187.
関連項目
ウィキメディア・コモンズには、
清泉寮に関連するカテゴリがあります。
外部リンク
- 清泉寮 - 清里高原 ソフトクリーム・体験プログラム・お食事・ご宿泊 清里高原の観光施設
- 清泉寮 - 富士の国やまなし観光ネット 山梨県公式観光情報
- 財団法人キープ協会