池辺 棟三郎(池邊、いけべ とうざぶろう、1858年3月10日(安政5年1月25日[1][注 1]) - 1926年(大正15年)4月13日[1])は、明治から大正時代の医師。宮中顧問官。旧姓は渡邊[1][2]。
渡邊建節の二男として豊後国(現大分県)に生まれ、1888年(明治21年)5月、池辺田村の養嗣子となり家督を相続する[2]。1871年(明治4年)加藤賢成の門に入り漢学を修め、1873年(明治6年)大分町英学校、豊前中津において英語を研鑽したのち上京しドイツ人・ヒュルゲルマイステルに従いドイツ語を修めた[3]。同年9月、東京外国語学校に進んだのち、翌年3月、帝国大学医学部に入り、1886年(明治19年)10月に卒業し、医学士の称号を得た[4]。卒業後は帰郷し、大分県立甲種医学校教授兼同県立病院副院長となり、1888年(明治21年)3月、富山県立病院院長に転じ、翌年2月、同県第一回薬舗試験委員嘱託となり、1892年(明治25年)より1905年(明治38年)まで14年間に渡り東京医術開業試験委員を務めた[4]。ついで1895年(明治28年)には医学の視察のために欧米に渡り、翌年帰朝した[4]。
1894年(明治27年)宮内省侍医局に転じ、1897年(明治30年)侍医、1919年(大正8年)侍医頭を経て、1924年(大正13年)宮中顧問官となった[1]。ほか、東洋生命保険医務局長などを歴任した[2]。
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