江口 憲一(、1947年〈昭和22年〉[2][3]6月9日[4][1][5] - )は、日本の特撮映画の撮影監督。東京都出身[4][1][2]。東宝映像美術所属[4]。
経歴
東京写真大学を卒業後[1][2]、日テレ報道部のカメラマンとして入社[2]。しかし、政府関係の会議が中心であったため面白みを感じられず、自身の写真について考えるため半年間インドを旅する[2]。1973年に退社しフリーとなり、テレビドラマの撮影助手として活動を始める[2]。1974年に東宝映像に入社[2]。
映画『ノストラダムスの大予言』(1974年)で特撮作品に初参加したのち[2]、映画『大空のサムライ』(1976年)より特撮監督の川北紘一の下で特撮班チーフカメラマンを務める[6][7][注釈 1]。ゴジラシリーズでは、川北が離れた後も『ゴジラ×モスラ×メカゴジラ 東京SOS』(2003年)まで参加した[3][5]。
撮影手法
川北紘一が特撮監督を務めた怪獣映画では怪獣の目線に合わせた主観撮影が多用されるが、江口は怪獣の歩行にあわせて自身も大きく踏み歩いてカメラを振動させたり、独自に開発した振動装置を用いて地響きを表現するなど独特な手法を駆使していた[3]。
またゴンドラやクレーンを用いての危険なカメラワークも果敢に挑戦しており、大プールにカメラごと落ちても撮影を再開しようとしたことから「ダイハード・江口」とあだ名された[3]。『ゴジラvsビオランテ』では、大プールでの撮影に用いていたイカダが急停止し水没している[9]。
ミニチュアセットの撮影では、造形物が多いために照明が狙った影がうまく作れないこともあり、照明を強調するため黒のスプレー塗料を用いて影を描くという手法を考案した[10]。
本格的にデジタル合成が導入された平成モスラシリーズでは、操演のピアノ線を消す作業もフォトショップを用いて自ら行っていた[8]。
デジタル技術の発展によりカメラで映した映像をモニターで確認できるようになったことについて、カメラマン以外のスタッフでも現場で画を確認できるため合成作業などが効率的になったと評している一方で、様々な部署から意見が出るようになったことから現場の効率ため江口自身は一度OKを出したものについては再チェックはしないと述べている[11]。
代表作
テレビ
映画
受賞歴
脚注
注釈
出典
- ^ a b c d FCGMG 2002, p. 58, 「INTERVIEW04 江口憲一」、FCGMMG 2003, p. 68, 「スタッフインタビュー INTERVIEW 05 江口憲一」
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o 平成ゴジラ大全 2003, pp. 102–103, 「破之壱『ゴジラVSビオランテ』 カメラマン・江口憲一」
- ^ a b c d 平成ゴジラパーフェクション 2012, pp. 104–105, 「平成ゴジラの特撮2 撮影」
- ^ a b c ゴジラ大百科 1990, p. 100, 「ゴジラ・スタッフ名鑑 STAFF WHO'S WHO」、最新ゴジラ大百科 1991, p. 97, 「ゴジラスタッフ名鑑」
- ^ a b c d 野村宏平、冬門稔弐「6月9日」『ゴジラ365日』洋泉社〈映画秘宝COLLECTION〉、2016年11月23日、155頁。ISBN 978-4-8003-1074-3。
- ^ ゴジラ大全集 1994, p. 157, 「INTERVIEW 江口憲一」
- ^ FCGMMG 2003, p. 68, 「スタッフインタビュー INTERVIEW 05 江口憲一」
- ^ a b 東宝SF特撮映画シリーズ13 1998, p. 92, 「特殊技術撮影:江口憲一」
- ^ 平成ゴジラ大全 2003, pp. 111–112, 「破之壱『ゴジラVSビオランテ』 クランク・イン、そして水難」
- ^ 平成ゴジラ大全 2003, pp. 151–152, 「破之弐『ゴジラVSキングギドラ』 真昼の決闘」
- ^ FCGMG 2002, p. 58, 「INTERVIEW04 江口憲一」
- ^ “映画資料室”. viewer.kintoneapp.com. 2020年6月9日閲覧。
- ^ 平成ゴジラ大全 2003, pp. 160–161, 「破之弐『ゴジラVSキングギドラ』 満足のクランク・アップ」
参考文献
外部リンク
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