永田 昌弘明星高等学校硬式野球部 監督 |
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基本情報 |
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国籍 |
日本 |
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出身地 |
愛知県豊橋市 |
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生年月日 |
(1958-01-24) 1958年1月24日(66歳) |
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選手情報 |
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ポジション |
内野手 |
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経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) |
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選手歴 |
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監督歴 |
- 国士舘高等学校 (1983 - 2005)
- 国士舘大学 (2006 - 2015)
- 国士舘高等学校 (2016 - 2022)
- 明星高等学校(2023 - )
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永田 昌弘(ながた まさひろ、1958年1月24日 ‐ )は、日本の元社会人野球の選手(内野手)。現在は、学生野球の監督。
経歴・人物
豊橋市立栄小学校、豊橋市立南部中学校を経て、高校は中京高に進学[1]。1975年(昭和50年)の第47回選抜高等学校野球大会に同校内野手としてベンチ入りした。同期に岡田忠雄、近沢英二がいた。
高校卒業後は、国士舘大学に進学し硬式野球部に入部。4年秋に同期のエース片岡大蔵らの活躍で東都大学野球1部リーグで優勝を経験した。
大学卒後は、社会人野球の東京ガスに入団し、都市対抗野球大会に3年連続(自身の出場登録は2年連続)で出場した。
1983年(昭和58年)に国士舘高校野球部監督に就任すると23年間で甲子園春夏出場8回(通算10勝8敗)、明治神宮大会・高校の部出場4回(優勝1回)の強豪に育て上げた。
2006年(平成18年)春から国士舘大学硬式野球部の監督に就任し、1995年秋季リーグで2部へ降格以降、低迷期に喘いでいた野球部の再建に乗り出し、その結果3年後の2009年(平成21年)秋季リーグで優勝、1部との入替戦で青山学院大学を下して30季ぶりの1部復帰を果たす[2]。翌2010年(平成22年)は秋季リーグで最下位となり、入替戦でも日本大学に連敗して再び2部に降格した[3]。
2016年に再度、国士舘高校の監督に復帰。2022年3月に定年退職。
2023年11月より明星高校の監督に就任[4]。
沿革
甲子園での成績
春:出場8回9勝8敗 夏:出場1回1勝1敗 通算:出場9回10勝9敗
エピソード
- 甲子園初出場から2大会連続でベスト4を果たした時には高い攻撃力に『東の横綱』『打撃の国士舘』と呼ばれたが、「守りから入る野球」「足はうそをつかない」など守備力重視の指導方針であることを述べた。実際、他校に先駆けて「地下足袋ソックス」を導入するなど、堅実な指導に定評があった。
- 高校監督就任以来、着々と実績を積み重ねる中、唯一夏の東京大会の頂点が獲れなかった。その間にも春の選抜には7回出場していることから、『春の国士舘』『秋の国士舘』と呼ばれた。
- 藤枝明誠高等学校元野球部監督の永田弘光は実兄。
著名な教え子
参考文献
- スポーツ国士 永田監督が就任[リンク切れ](アーカイブサイト)2005年12月13日 2013年12月17日閲覧
- KOKUSHIKAN SPORTS PRESS[5]
脚注
関連項目