水谷 茂雄(みずたに しげお、1960年7月21日 - )は、三重県四日市市出身の元プロ野球選手(投手)。
来歴・人物
中学時代から投手としてプレーし、憧れの甲子園に出場できる近道として1976年に三重・海星高へ進学したが、規則の厳しさに嫌気がさして1年の1学期で退学した。1年遅れで入学した四日市工業高ではエース兼4番に抜擢され、速球を主体にカーブ、シュートを決め球とする本格派として活躍し、1年次の1977年夏にノーヒットノーランを記録。打つ方でも打率.420をマークしたほか、2年間で20本塁打以上を打つなど野手顔負けの長打力を見せた。1年遅れで入学したため、3年次の1979年は試合に出場できなかった。練習の手伝いやベンチからのサイン伝達などコーチ見習いの役割をしていたが、同年途中からは監督として部員をまとめた。
1979年のプロ野球ドラフト会議で南海ホークスから4位指名を受け入団。
1年目の1980年から一軍出場を果たす。2年目の1981年には故障で出遅れた金城基泰の代わりに抑えの切り札として10セーブを記録するなどブレイクするが、肘の故障や肝炎のため登板機会が減少。1984年12月に青山久人との交換トレードで中日ドラゴンズに移籍するが、中日では一軍登板がなく1985年に現役を引退。
引退後は地元の三重に帰郷し、鮮魚市場に勤めた。
詳細情報
年度別投手成績
年
度 |
球
団 |
登
板 |
先
発 |
完
投 |
完
封 |
無 四 球 |
勝
利 |
敗
戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝
率 |
打
者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬
遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴
投 |
ボ 丨 ク |
失
点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P
|
1980
|
南海
|
11 |
2 |
0 |
0 |
0 |
1 |
0 |
0 |
-- |
1.000 |
136 |
30.0 |
30 |
6 |
18 |
0 |
4 |
12 |
0 |
0 |
24 |
23 |
6.90 |
1.60
|
1981
|
45 |
0 |
0 |
0 |
0 |
2 |
1 |
10 |
-- |
.667 |
203 |
44.2 |
46 |
8 |
28 |
3 |
3 |
31 |
1 |
0 |
26 |
25 |
5.00 |
1.66
|
1982
|
7 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
-- |
---- |
51 |
9.2 |
20 |
2 |
3 |
0 |
1 |
7 |
0 |
0 |
13 |
11 |
9.90 |
2.38
|
1984
|
8 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
2 |
0 |
-- |
.000 |
52 |
10.2 |
17 |
6 |
4 |
1 |
0 |
3 |
1 |
0 |
17 |
14 |
11.81 |
1.97
|
通算:4年
|
71 |
2 |
0 |
0 |
0 |
3 |
3 |
10 |
-- |
.500 |
442 |
95.0 |
113 |
22 |
53 |
4 |
8 |
53 |
2 |
0 |
80 |
73 |
6.92 |
1.75
|
記録
- 初登板:1980年6月27日、対西武ライオンズ前期10回戦(西武ライオンズ球場)、3回裏1死から2番手で救援登板、4回2/3を3失点
- 初先発登板:1980年8月30日、対日本ハムファイターズ後期7回戦(鹿児島県立鴨池野球場)、6回0/3を4失点で勝敗つかず
- 初勝利・初先発勝利:1980年9月17日、対西武ライオンズ後期9回戦(平和台球場)、6回1/3を2失点
- 初セーブ:1981年4月4日、対日本ハムファイターズ前期1回戦(後楽園球場)、9回裏から2番手で救援登板・完了、1回無失点
背番号
- 31 (1980年 - 1982年)
- 13 (1983年)
- 30 (1984年)
- 48 (1985年)
関連項目
外部リンク