比粟毒(呉音:びそくどく、漢音:ひしょくとく、拼音:Bǐsùdú、生没年不詳)は、回紇部の俟利発(イルテベル:部族長)で瀚海都督[1]。婆閏の甥[2]。姓は薬羅葛(ヤグラカル)氏で、名は比粟毒。『新唐書』では比栗(Bǐlì)と表記。
生涯
龍朔中(661年 - 663年)、婆閏が死ぬと、甥の比粟毒は回紇部を率いて同羅部・僕固部と共に犯辺し、唐に対して反旗を翻した。唐の高宗は鄭仁泰に命じて僕固らを討平させ、比粟毒を敗走させると、鉄勒本部をもって天山県とした。龍朔3年(663年)、唐は燕然都護府を回紇に領させ、瀚海都護府とした。
永隆中(680年 - 681年)に比粟毒が死ぬと、子の独解支が後を継いだ。
脚注
- ^ 俟利発(イルテベル:Iltäbär)とは、突厥可汗国が各部族長に与える称号の一つ。しかし、回紇部はそれを自称していた。
- ^ 『新唐書』では子。
参考資料
- 『旧唐書』(本紀第四 高宗上、列伝第一百四十五 迴紇)
- 『新唐書』(列伝第一百四十二上 回鶻上)