樺太鉄道
樺太鉄道株式会社(からふとてつどうかぶしきがいしゃ、旧字体:樺太鐵道󠄁株式會社󠄁)は、大正から昭和初期にかけて存在した日本の鉄道事業者である。樺太栄浜郡落合町大字落合に本社を置き、樺太庁鉄道東海岸線の落合駅から敷香駅までを結ぶ鉄道路線(樺太鉄道会社線)を運営していた。略称は「樺鉄」。
概要
当時の樺太で地方鉄道法による営業免許を受けた3社[注 1]のうちのひとつで、樺太地方鉄道補助法に基づき開発上の観点から樺太庁によって補助金が交付されていた[3]。樺太庁鉄道東海岸線の落合駅を起点として東海岸を北上、知取町を経由して敷香町に至る全長245.5キロメートルの鉄道路線を建設し[4]、1941年(昭和16年)に樺太庁が買収するまで存続した[5]。
当初は王子製紙と富士製紙の共同出資によって設立されたが、王子製紙・富士製紙・樺太工業の3社合併により王子製紙の直系企業となった[6]。初代取締役会長の奥平昌恭をはじめ役員の多くが東京市に住んでいたため、連絡上の都合で東京市麹町区に東京出張所を設けていた[7][8]。
沿革
樺太東海岸の開発と製紙業
1905年(明治38年)に樺太が日本の統治下となって以来、東海岸の交通機関は海運に依存していたが、良港に乏しいことや冬季の海面凍結によって運航上の問題を抱えていた。陸上交通は日本の領有以来未開のまま放置されており、軍用道路が開鑿された他に鉄道はなかった[8]。
大正に入ると樺太ではパルプの生産が始まり、亜庭湾や西海岸を中心に三井紙料工場(後の王子製紙大泊工場)や樺太工業泊居工場(後の王子製紙泊居工場)が建設されたが、東海岸はパルプの生産拠点が置かれていなかった[9]。そこで、実業家の小池国三は樺太農産興業社長の塚越卯太郎と検討した上、パルプ工場建設予定地を落合・知取・敷香の三か所に決定し、日本化学紙料を設立した。1917年(大正6年)4月には先行して落合工場が操業を開始し、大戦景気による需要拡大で知取と敷香にも工場を設置する動きが活発化した[10]。一方、1919年(大正8年)末頃から隣国であるロシアとの関係が悪化し、翌年には尼港事件が発生するなど、北方の警備を固める必要が生じた。このため軍部は鉄道を敷設する必要を迫られたが、樺太庁は財政に限りがあり敷設は困難であったため、当時の軍は民間企業によって北方への鉄道を建設させたいという思惑があったとされている[10]。
鉄道建設の機運の高まり
日本化学紙料による知取・敷香の両工場建設は森林収入が増える影響で樺太庁側も建設に前向きだったが、1920年(大正9年)の戦後恐慌のあおりを受け新工場建設計画には暗雲が立ち込めた。そこで日本化学紙料は樺太庁に対し「鉄道がないので工場を設けるわけにはいかぬ、鉄道さえあれば自分の方でも工場を建てよう」と持ち出した[10]。樺太庁は財政難のため、建設後10か月は年8パーセントの補助金を交付するという提案(後の樺太地方鉄道補助法)を行い、日本化学紙料はこれを受け入れた。しかし、日本化学紙料1社のみで事業を行うことは不可能であったため、王子製紙および樺太工業にも協力を求めた。この2社は東海岸と無関係に等しかったが、将来的な森林資源の利用を見越して日本化学紙料の申し入れに応じた[11]。
株式の割り振りは日本化学紙料が55パーセント、残り45パーセントを王子製紙・樺太工業の2社などで持つことになったが[11]、日本化学紙料は1920年(大正11年)6月1日に富士製紙に合併されたため、代わりに富士製紙が経営に参画することになった[12]。また、樺太工業は1921年(大正10年)に同社の泊居工場と真岡工場が立て続けに火災に遭ったため、鉄道への出資を辞退した[12]。
会社設立
1923年(大正12年)3月、以下の創立趣意書を関係各所に配布し、計画に対する賛同を募った[13]。
樺太東海󠄀岸ハ冬󠄀季半󠄁歲ノ久シキ沿󠄀岸悉ク結氷シテ海󠄀運󠄁杜絕シ夏季亦良港󠄁灣ナキ爲メ船󠄂舶ノ難󠄀破尠カラズ、之レガ爲メ物資󠄁ノ運󠄁輸󠄁ニ多大ノ危險ト無益󠄁ノ經費ヲ要󠄁ス。而モ最モ必要󠄁ヲ感ズル四時安全󠄁ナル陸上運󠄁輸󠄁ノ施設ニ至リテハ領有以來何等爲ス所󠄁ナキ爲メ樺太中最モ未開ノ狀態ニアリ、然レバ東海󠄀岸百四拾哩間ノ鐵路開設ハ獨リ住民宿昔ノ渴望タルニ止マラズ、又󠄁內󠄁地事業家ノ其實現ヲ翹望シテ止マザル所ナリ、殊ニ北樺太ノ保障占領ト沿󠄀海󠄀州ニ對スル通󠄁商貿易關係上、南北樺太ヲ聯結スベキ鐵道󠄁速󠄁成󠄁ノ要󠄁望一層󠄁切實トナレリ。是レ不肖󠄁等ガ時勢ノ要󠄁求ニ應ジ私設鐵道󠄁トシテ本會社󠄁ノ設立ヲ計畫スル所󠄁以ナリ
政府ハ本鐵道󠄁ノ國家的事業タルニ鑑ミ樺太地方鐵道󠄁補助法ニ依リ、本會社󠄁設立後向十年間拂込資󠄁本ニ對シ年八󠄀朱ノ利益󠄁保證ノ特典ヲ附與セラレタリ
本會社󠄁ノ株式ハ發起人賛成󠄁人ニ於テ全󠄁部引受ノ希望ナキニ非ザルモ、公󠄁共的性質ヲ有スル本事業ヲ獨占スルガ如キハ素ヨリ發起人ノ志ニアラズ、可成󠄁多數人士ガ其利益󠄁ニ均󠄀霑センコトヲ冀フガ故ニ、特ニ株式ノ一半󠄁ヲ割󠄀キテ公󠄁募ニ附スルコトトナセリ、希クハ大方ノ諸󠄁彥本計畫ノ趣意ニ賛同セラレ奮ツテ應募アランコトヲ
— 大正十二年三月 發起人 [13]
創立趣意書配布後の同年4月1日には創立総会が開かれ[注 2]、樺太鉄道株式会社が成立した[12]。登記上の設立日は4月10日[15]。設立当初の取締役および監査役は以下の通り[15]。小池・飯田の肩書は1921年(大正10年)の人事興信録第6版に、それ以外は1928年(昭和8年)の人事興信録第8版に基づく。なお、肩書の太字は製紙業関連企業を示している。
多くの製紙企業から役員が選ばれており、創立関係やその他重要な事務処理には主に王子製紙代表の田中治朗が業務を行った[12]。また、一般事務には元日本化学紙料社員で後に取締役となる[31]杉浦謹次郎が事務係と共にあたった[32]。
当初の本店は豊原郡豊原町大字北豊原字北二線東8番[15]、事務所は東京市京橋区銀座四丁目の富士製紙ビル3階山林部にあり、事務作業は山林部長である石上林二郎の脇に机を並べて行っていた[32]。1923年(大正12年)8月末には株券の印刷を終え発送に取り掛かっていたが、同年9月1日に発生した関東大震災によって翌日には火災で全焼してしまい、株券が届いていない株主もいたことから新たに株券を作ることになった[32]。
鉄道の経営に関しては富士製紙および樺太工業の大川平三郎と王子製紙の藤原銀次郎の方針の違いが現れた。大川は付帯事業として炭鉱や港湾事業を行うことに積極的で、これを定款に盛り込もうとしていたが、一方で藤原は「そうして利益を上げればいいようだが、本来の鉄道事業に十分の資金が回らぬようなことになれば、満足な経営はできず、その上、他の事業も中途半端のことになっては虻蜂取らずになる恐れがある」と慎重論を述べ、杉浦謹次郎もこれに同感していた[33]。
鉄道の敷設
会社設立に先立ち、発起人一同によって1921年(大正10年)12月26日には内閣総理大臣に対し鉄道敷設免許の認可申請書を提出し、翌年3月6日には免許を取得した[14][34]。鉄道免許を受け発起人一同は会社設立の準備に取り掛かっていたが、当時の財政界の不況によって資金の調達が上手くいかず、設立は1923年(大正12年)4月へとずれ込んだ。会社設立後の4月10日、樺太庁長官へ地方鉄道補助法に関する申請を行い、4月14日には許可が下りた[14]。以下は設立当時の企業計画である[35]。
一 目的
- 輕便󠄁鐵道󠄁を敷󠄁設して一般旅󠄁客貨物の運󠄁輸󠄁營業及󠄁沿󠄀線開發に資󠄁する拓殖事業竝に之に附帶する業務を營むを以て目的とす。但し鐵道󠄁運󠄁輸󠄁營業以外の事業を兼󠄁營する場合は更󠄁に監󠄁督官廰の承認󠄁を經るものとす󠄁
二 鐵道󠄁の名稱及󠄁主たる事務所󠄁の設置地
- 樺太鐵道󠄁株式會󠄁社󠄁と稱し本社󠄁を樺太豐原郡豐原に置く
三 事業資󠄁金の總額及󠄁其の出資󠄁方法
- 資󠄁金の總額は金壹千萬圓にして株式組織とし之を二十萬株に分󠄁ち一株の金額を金五十圓とす
四 線路の起點及󠄁其の經過󠄁地
- 榮濱─敷󠄁香間本島東海󠄀岸縱貫線
五 鐵道󠄁の種類、軌間及󠄁線路の間隔󠄁
- 蒸氣輕便󠄁鐵道󠄁にして軌間は三呎六吋として線路の間隔󠄁を十二呎とす
六 單線複線の區別
- 單線
七 營業期間
- 敷󠄁設許可の日より五十ヶ年とす
八 營業開始豫定期日 — 樺太鐵道󠄁株式會社󠄁 [35]
会社設立当初、起点を樺太庁鉄道栄浜駅とし、敷香村へ至る全長144.5マイル(約232.55キロメートル)の鉄道を敷設する計画として免許を取得していた[35]。しかし、栄浜から北上すると内淵川の河口の影響で大きく迂回する必要があることや[32]、落合には富士製紙の工場が立地することを踏まえ、起点を落合駅とする方針を決めた。これに対し栄浜村は反発し拓殖局への陳情を行ったが、「栄浜と落合は別個の町村だから、長官の権限で裁定することは出来ない」との理由で内閣まで話はもつれ込み、結果的に落合から相浜を第1工区として施工する命令が出された[36]。これにより、1925年(大正14年)2月27日に落合・相浜間に予定を変更する免許申請を行い、同年5月10日に交付された[35]。
同年2月12日には元泊・知取間、2月27日には相浜・近幌間の起工認可申請書を樺太庁長官宛てに提出し、同年6月16日には相浜・知取間の認可指令が下された。落合・相浜間についても同年6月25日に認可の指令を受け、第1期工事である落合・知取間全工程の認可を樺太庁から得た上で工事着工の準備に取り掛かった[38]。敷設予定線の調査には、元鉄道省で富士製紙の技師だった青山与一が仕事にあたり、建設では鉄道省北海道建設事務所長の筒井弥一と部下15名、ほか外部から約35人を雇った。レールは45ポンドと60ポンドを併用し、軌間は狭軌(1067ミリメートル)とした[36]。土木関係では第1期工事として落合・知取間を4工区に分け、うち第1工区は遠藤組に、第2工区から第4工区を大倉組が落札し、1925年(大正14年)10月1日に工事を開始した[38]。
第3工区の近幌・元泊間は難工事となり、海岸に突岨山が大きく突き出す地形のため、鉄道敷設にあたっては海沿いを避け迂回した[37]。また、第4工区の樫保では、建設した護岸が波によって浚われるトラブルなどもあった[39]。そのような中でも工事は急ピッチで進められ、当初より1年分期間を短縮して完成を急いだ結果[38]、1927年(昭和2年)10月に落合・知取間が完成し[37]、同年11月20日から営業を開始した[38]。
知取・敷香間については着工が遅れ、鉄道との利害関係がないことから開業を引き延ばそうとする王子製紙側と開業を急ぐ富士製紙側とで対立したものの、残りの約75キロメートルのうち知取・南新問間(第5工区)を原木輸送のため先行して建設することになった[37]。1929年(昭和4年)3月に第5工区は工事に着手し、翌年11月3日に延伸開業した[37]。最後の区間である第6工区の南新問・敷香間については世界恐慌などの影響を受け工事が一時中断されたものの[34]、樺太の開拓において重要な幹線であることを鑑みて1934年(昭和9年)11月に着工、1936年(昭和11年)8月30日に全線が開通した[37]。この間に王子製紙・富士製紙・樺太工業の3社は合併しいわゆる「大王子製紙」となっている。1932年(昭和7年)には敷香に王子製紙系の日本人絹パルプが設立されており、第6工区の開通式は同社の敷香工場にて行われた[37]。
開業後の状況
1927年(昭和2年)の開業以降、貨客取扱および収入は概ね増加の傾向にあったものの、1930年(昭和5年)から始まった昭和恐慌の影響により、1933年(昭和8年)までは減収の一途を辿った。翌年以降は業績が回復し、1936年(昭和11年)8月30日の全線開業に伴って貨車収入は開業当時の5倍以上に増加していた[40]。
1936年(昭和11年)7月27日から8月26日にかけて、樺太の鉄道として初めて夜行列車が運転された。これは樺太庁始政三十回記念樺太拓殖共進会の開催に合わせて運行されたもので、落合・南新問間を1日1往復運転した。同年8月30日には南新問・敷香間が開業したことに伴い、新たに以下の列車が運行を開始した。旅客列車の運行には新たに購入したガソリン動車が充てられた[40]。
同年10月には樺太全土を襲った台風の被害により運休が生じ、10月10日に知取・柵丹間の一部を自動車代行として軌条移設工事が行われた。全線が復旧したのは同年12月初旬となったが、乗車人員は前年同期と比較し4.7%の減少を示した[40]。
樺太庁による買収
樺太鉄道の買収は帝国議会でもたびたび議論されており[41]、1939年(昭和14年)には当時の樺太庁長官であった棟居俊一が樺太の三大事業のうちの一つとして掲げていた[42]。樺太鉄道は国防上重要な鉄道のため当時の拓務省は買収価格を2,000万円と試算していた[41]。同年6月26日には軍用資源秘密保護法の規定で輸送能力に関する情報が軍用資源秘密となり[43]、翌年には第75回帝国議会にて「樺太鉄道株式会社所属鉄道買収ノ為公債発行ニ関スル法律案」が提出された[44]。提案理由の答弁にて大蔵政務次官であった木村正義は、樺太鉄道が拓殖や国防において重要な路線であること、国有鉄道の運輸系統および連絡整備に必要であること等を述べた[45]。同年3月24日には貴族院にて法案が可決され[46]、4月2日に「樺太鉄道株式会社所属鉄道買収ノ為公債発行ニ関スル法律」(昭和15年法律第85号)が公布となった[47]。
樺太鉄道は1941年(昭和16年)3月31日付で買収され[33]、同日より樺太庁鉄道東海岸線として営業を開始した[5]。当時の樺太庁は八幡製鉄所で利用される粘結炭の輸入停止と鉄増産に伴う石炭使用量の増加により、西海岸にある炭鉱の開発増産に迫られていたものの、予算に余裕はなかった。そこで樺太庁は樺太鉄道の買収と引き換えに、買収で得た資金での鉄道会社設立と西海岸の鉄道敷設を付帯条件とした。これにより、樺太鉄道の経営陣は恵須取鉄道株式会社を設立することになった[33]。
鉄道路線
駅一覧
輸送・収支実績
運輸成績
年度
|
旅客人員(人)
|
手小荷物(キロ)
|
貨物量(トン)
|
出典
|
総数
|
(二等)
|
(三等)
|
(発送)
|
(到着)
|
(発送)
|
(到着)
|
1928
|
267,518
|
-
|
-
|
364,155
|
54,396
|
[49]
|
1929
|
310,803
|
-
|
-
|
572,502
|
176,920
|
[50]
|
1930
|
249,296
|
2,967
|
246,329
|
470,000
|
470,000
|
214,660
|
241,660
|
[51]
|
1931
|
208,413
|
1,148
|
207,265
|
174,000
|
370,000
|
169,363
|
162,269
|
[52]
|
1932
|
204,252
|
859
|
203,393
|
164,000
|
367,000
|
223,015
|
221,796
|
[53]
|
1933
|
204,389
|
815
|
203,574
|
165,000
|
312,000
|
227,236
|
219,386
|
[54]
|
1934
|
224,197
|
1,044
|
223,153
|
178,000
|
337,000
|
279,182
|
245,684
|
[55]
|
1935
|
263,047
|
1,315
|
261,732
|
550,000
|
333,617
|
[56]
|
1936
|
228,084
|
1,287
|
226,797
|
578,000
|
366,418
|
[57]
|
1937
|
281,319
|
1,389
|
279,930
|
832,403
|
460,193
|
[58]
|
運輸収支
年度
|
客車収入(円)
|
貨車収入(円)
|
雑収入
|
出典
|
総額
|
旅客運賃
|
郵便料
|
手荷物運賃
|
小荷物運賃
|
総額
|
小口扱運賃
|
貸切扱運賃
|
1928
|
437,497.31
|
420,090.69
|
8,109.00
|
9,297.62
|
156,432.26
|
-
|
-
|
10,078.99
|
[49]
|
1929
|
506,288
|
481,570
|
9,897
|
14,821
|
345,219
|
-
|
-
|
22,991
|
[50]
|
1930
|
391,819
|
369,572
|
9,954
|
4,423
|
7,869
|
439,582
|
67,808
|
371,774
|
47,569
|
[59]
|
1931
|
354,040
|
332,777
|
10,048
|
4,025
|
7,190
|
351,243
|
75,985
|
275,258
|
32,733
|
[52]
|
1932
|
349,374
|
326,464
|
11,592
|
4,119
|
7,199
|
524,996
|
82,569
|
442,427
|
34,164
|
[60]
|
1933
|
352,618
|
329,849
|
11,343
|
3,730
|
7,696
|
526,445
|
86,659
|
439,786
|
33,299
|
[61]
|
1934
|
412,958
|
387,064
|
12,121
|
4,287
|
9,485
|
787,108
|
94,418
|
690,689
|
36,838
|
[62]
|
1935
|
452,112
|
421,903
|
13,952
|
4,947
|
11,310
|
944,130
|
106,456
|
837,674
|
42,806
|
[56]
|
1936
|
412,834
|
382,067
|
15,022
|
4,776
|
10,969
|
938,406
|
101,611
|
836,795
|
48,822
|
[57]
|
1937
|
510,841
|
471,200
|
18,629
|
6,026
|
14,986
|
1,208,230
|
140,777
|
1,067,452
|
60,484
|
[58]
|
営業収支
年度
|
収入(円)
|
支出(円)
|
損益
|
出典
|
総額
|
客車収入
|
貨車収入
|
雑収入
|
総額
|
俸給及事務費
|
運輸及運転費
|
保存及車輛修繕費
|
その他経費
|
1935
|
1,439,048
|
452,112
|
944,130
|
42,806
|
1,675,372
|
96,118
|
778,821
|
597,192
|
203,241
|
▲236,324
|
[63]
|
1936
|
1,424,921
|
412,834
|
938,406
|
73,682
|
1,539,266
|
57,463
|
800,808
|
520,728
|
160,267
|
▲114,344
|
[64]
|
1937
|
1,797,215
|
510,841
|
1,208,230
|
78,144
|
1,919,742
|
92,087
|
985,182
|
649,249
|
193,224
|
▲122,527
|
[65]
|
車両
樺太鉄道では以下の車両を所有していた。
蒸気機関車
- 40形(40 - 46)
- 60形(60 - 74)
- 80形(80 - 89)
- ID型テンダー式蒸気機関車。9両が在籍していた[67]。
- 真縫の山岳を通過するため、勾配に適した機関車を汽車製造へ発注し購入した[67]。
- 1927年(昭和2年)から1935年(昭和10年)にかけて9両が造られ、全車が元泊に配置された[67]。
- 3000形(3000 - 3002)
- ガソリン動車(番号不明)
- 樺太鉄道の全線開業に伴って知取・敷香間および内路・敷香間の旅客列車として運行された[40]。
客車
開業時には、鉄道省から払い下げられた2軸三等客車8両、2軸三等緩急車2両と、自社で購入した木造大型ボギー二三等合造客車5両、木造大型ボギー三等客車9両の、合計24両が用意された。1928年度(昭和3年度)にやはり鉄道省からの譲渡で2軸手荷物緩急車6両が増加して30両となった。統計上はこの後1931年度(昭和6年度)までに総数31両になるので、不明な客車1両が増備されている。その後の国有化までの状況変化は不明で、自社購入したボギー客車14両が国有化に際して引き継がれたことはわかっているが、2軸客車については最低5両が引き継がれたことが判明しているのみである[69]。
- 2軸客車
- 開業時の2軸客車は後の資料から判断すると、明らかに九州鉄道から国有化で引き継がれたもので、オープンデッキの二重屋根、軸距4,000ミリメートル、側窓12個であった。三等客車が2581形、三等緩急車が4745形と推定されている。国有化時に引き継いだものには二等客車が1両存在し、これは二等客車を譲受していたのか、三等客車を樺太鉄道で改造して二等客車にしていたのか不明である。樺太庁鉄道に引き継がれて以降、二等客車はフロ60形フロ60号、三等客車はフハ100形フハ100・101号の計3両となった。7両は改造されたか廃車されたと思われる。開業翌年に譲渡の手荷物緩急車6両については形態不明で、鉄道省時代の形式も不明である。これらはいずれも樺太鉄道時代の記号番号は判明していない[69]。
- ボギー客車
- 開業時に自社発注で用意したボギー客車で、汽車製造東京製造であった。全長17,000ミリメートル、幅2,900ミリメートル、高さ3,924ミリメートルで、鉄道省の木製大型客車に相当する。樺太鉄道時代は、二三等合造客車がフナロハ120 - 124号、三等客車がフナハ150 - 158号で、樺太庁鉄道になってそれぞれフナロハ1170形1170 - 1174、フナハ1230形フナハ1230 - 1238となった[69]。
年表
参考文献
書籍
樺太庁統計書
官報
雑誌記事
- 小熊米雄「[続]樺太の客車」『鉄道ピクトリアル』第196号、電気車研究会、1967年5月、26-30頁。
脚注
注釈
出典
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- ^ 大蔵省印刷局 1939b, p. 881
- ^ 大蔵省印刷局 1939d, p. 43
関連項目
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