横山 義祐(よこやま よしすけ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。播磨国室山城主。
生涯
赤松政元の五男とされる。
『播州佐用軍記』には「藤左衛門義祐」と記され、「亀甲の中に、右文字を付けたる茜の旗」を旗指物にしていたという。
天正5年(1577年)、織田氏家臣・羽柴秀吉の上月城攻撃により落城後、4人の家臣(石生某、荒尾某、登尾某など)を連れて美作国英田郡粟井[1]に逃れた。
義祐と家臣の末裔は、江戸時代に入り郷士として明治まで存続した。
脚注
- ^ 現在の岡山県美作市。
出典
- 浜田洋『佐用の史跡と伝説 改訂増補』1973年 (株)千種川レクリエーション
- 『播州佐用軍記』[要文献特定詳細情報]