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小説家の「森禮子」とは別人です。 |
森 麗子(もり れいこ、1921年3月6日 - )は、日本の教育者、生物学者、手芸家、詩人。
旧姓は萩原(はぎわら)。書籍などで森 れい子(もり れいこ)との名義を用いることもある。
静岡県森町高等女学校、静岡高等学校、文化服装学院での勤務を経て、ガブロム工房主宰などを歴任した。
概要
静岡県出身の手芸家である[1]。旧制高等女学校や旧制高等学校の教員を経て[1]、結婚を機に手芸家として活動する[1]。エドナ・マーチンに師事したのち[1]、さまざまな技法を駆使して糸で絵を描く「ファブリックピクチャー」を確立し[2][3]、日本における第一人者として知られている[4]。ガブロム工房の主宰としても活動し[1]、個展だけでなく工房展なども開催した[1]。旧制の静岡県森町高等女学校や静岡高等学校で教鞭を執り[1]、戦後は文化服装学院において後進を育てた[1]。
来歴
生い立ち
1921年(大正10年)3月6日、静岡県静岡市に生まれた[1]。東京府により設置・運営される東京府立第三高等女学校に進学し[1][† 1]、1938年(昭和13年)に卒業した[1]。さらに国が設置・運営する東京女子高等師範学校に進学するも[1][† 2]、太平洋戦争勃発にともない1941年(昭和16年)に繰上卒業となった[1]。
教育者として
1942年(昭和17年)4月より、静岡県周智郡の森町により設置・運営される静岡県森町高等女学校に勤務した[1][† 3][† 4]。この静岡県森町高等女学校には1年間勤めていた[1]。
1943年(昭和18年)4月より、国が設置・運営する静岡高等学校に採用され[1][† 5]、生物学研究室に所属した[1]。ところが1945年(昭和20年)6月の静岡大空襲に罹災し[1]、家財や研究資料などを失った[1]。なお、それと並行して他の教育・研究機関においても教鞭を執っていた。同名の財団法人により設置・運営されていた静岡女子薬学専門学校においては、化学を講じていた[1]。太平洋戦争終結後の1945年(昭和20年)12月に静岡高等学校を退職する[1]。
手芸家として
1945年(昭和20年)12月、工学者の森芳郎と結婚した[1]。それにともない、東京都に転居した[1]。芳郎からの勧めもあり、結婚後の仕事について模索する[1]。その結果、糸を使った「ファブリックピクチャー」に取り組むようになる[1]。1967年(昭和42年)、並木学園により設置・運営される文化服装学院にて[† 6]、服飾科から手芸科を分離独立させることになったことから[1]、そこに招かれ刺繍、染色、プリントなど創作手芸を4年にわたって指導した[1]。文化服装学院が夏休みを迎えると[1]、スウェーデン王国に渡り、スウェーデン王立美術院教授のエドナ・マーチンに師事した[1]。また、同国においてフレミッシュ織についても学んだ[1]。
1971年(昭和46年)、ガブロム工房を設立し主宰となる[1]。後進の育成にも力を注ぎ、のちに「ボードウィービング」を考案する山野井佳子らを輩出した[5]。なお、1970年(昭和45年)頃より自身の作品を発表するようになり[1]、1973年(昭和48年)には初の個展を開いている[1]。以降は個展や工房展などを度々開くようになる。自らの作品をまとめた書籍も多数上梓している。
略歴
作風
染め、刺し、織り、アップリケ、といったさまざまな技法を駆使した作品を発表しており[1][3]、独自の「ファブリックピクチャー」を展開することで知られている。針を筆に[3]、糸を絵の具にそれぞれ見立て[3]、布の上にあたかも絵画のように図案を描いていく手法であり[3]、いわゆるニードルアートに分類されるものである。
作品集を多数上梓しているが、ファブリックピクチャーの作品のみを掲載するのではなく、それに自作の詩を添えている。そのため詩人としての側面も持つ。
人物
- 趣味嗜好
- 詩作に優れていた。東京府立第三高等女学校の生徒であったときには、特に選ばれて香淳皇后に詩を献納している[1]。また、絵画も得意であり、東京女子高等師範学校の生徒だったときには、特に選ばれて香淳皇后に絵画を献納している[1]。
- 氏名
- 書籍のクレジット表記などでは「森れい子」[6]表記を用いることもある。ただし、全てがそうというわけではなく、「森麗子」[7]表記を用いている書籍もある。
- 忠犬ハチ公
- 子供の頃、通学で渋谷駅を利用しており[8]、その際に秋田犬のハチに出会ったという[8]。ハチはのちに「忠犬ハチ公」として著名となるが、当時はまだ存命中で渋谷駅に出没していた。ハチに餌を分け与えたこともあるという[8]。
- 工房
- 主宰した工房には「ガブロム」という語を冠しているが、これは「Groupe des Artistes de Broderie chez Mori」[1]の略である。
家族・親族
麗子の生家である萩原家は、10代続いた旧家であった[1]。夫の森芳郎は工学者であり[1]、東京大学工学部教授などを歴任した。
著作
単著
共著
寄稿、分担執筆、等
脚注
註釈
出典
関連人物
関連項目
外部リンク