梨羽 時起(なしは ときおき、1850年9月24日(嘉永3年8月19日) - 1928年10月24日[1])は、日本の海軍軍人、華族。最終階級は海軍中将。貴族院議員、男爵。
経歴
長州藩士・有地信敏(通称は藤馬、長州藩武術指南役、1千石)の四男として生まれ、長州藩士・梨羽景介(683石)の養子となる[2][3]。小隊長として戊辰戦争に出陣した。
1871年、鉄道局二等見習となり、測量司、三等大技生、内務七等属(量地課)などを経て、1880年8月、海軍中尉に任官し「富士山艦」乗組となる。「筑波艦」乗組、「肇敏」「天龍艦」「第二丁卯艦」「筑波艦」「金剛」の各分隊長、「金剛」「筑波」「葛城」の各副長、海軍兵学校監事長、「千代田」副長などを経て、日清戦争には「赤城」艦長として出征し、さらに「天城」艦長となった。
呉水雷隊司令、「海門」「葛城」「金剛」「秋津洲」「橋立」「鎮遠」「高砂」「常磐」「初瀬」の各艦長を歴任する。呉海兵団長を経て、1903年7月、海軍少将に進級。呉港務部長、常備艦隊司令官などを経て、日露戦争では第1戦隊司令官として出征。旅順港封鎖に従事中、麾下の「初瀬」・「八島」の2戦艦が触雷し沈没する被害を受けた。その後旅順口鎮守府艦隊司令官に転じている。横須賀港務部長、佐世保港務部長、馬公要港部司令官などを歴任。1907年3月、海軍中将となり将官会議議員に発令され、同年5月8日に待命となる[4]。同年10月31日、予備役に編入された[5]。1913年8月19日に後備役となる[6]。1915年8月19日に退役した[7]。
1907年9月、男爵の爵位を叙爵し華族となり、1911年7月10日から[8]1918年7月9日まで貴族院議員を務めた[1]。
栄典
- 位階
- 勲章等
親族
脚注
- ^ a b 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』80頁。
- ^ 秦 2005, pp. 178–179, 第1部 主要陸海軍人の履歴:海軍:有地品之允
- ^ 秦 2005, p. 238, 第1部 主要陸海軍人の履歴:海軍:梨羽時起
- ^ 『官報』第7155号、明治40年5月9日。
- ^ 『官報』第7304号、明治40年11月1日。
- ^ 『官報』第319号、大正2年8月21日。
- ^ 『官報』第916号、大正4年8月20日。
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、20頁。
- ^ 『官報』第176号「叙任」1884年2月2日。
- ^ 『官報』第2237号「叙任及辞令」1890年12月11日。
- ^ 『官報』第4046号「叙任及辞令」1896年12月22日。
- ^ 『官報』第4402号「叙任及辞令」1898年3月9日。
- ^ 『官報』第5937号「叙任及辞令」1903年4月21日。
- ^ 『官報』第7157号「叙任及辞令」1907年5月11日。
- ^ 『官報』第7321号「叙任及辞令」1907年11月21日。
- ^ 『官報』第1301号「叙任及辞令」1916年12月2日。
- ^ 『官報』第4298号「叙任及辞令」1926年12月20日。
- ^ 『官報』第1925号「叙任及辞令」1889年11月27日。
- ^ 『官報』第1938号「叙任及辞令」1889年12月12日。
- ^ 『官報』第3430号「叙任及辞令」1894年12月3日。
- ^ 『官報』第3676号「叙任及辞令」1895年9月28日。
- ^ 『官報』第3838号・付録「辞令」1896年4月18日。
- ^ 『官報』第4754号「叙任及辞令」1899年5月10日。
- ^ 『官報』第6271号「叙任及辞令」1904年5月28日。
- ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1906年12月30日。
- ^ 『官報』第7272号「授爵敍任及辞令」1907年9月23日。
参考文献
- 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 秦郁彦 編著『日本陸海軍総合事典』(第2)東京大学出版会、2005年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
- 福川秀樹『日本海軍将官辞典』芙蓉書房出版、2000年。
関連項目