梅川 昭美(うめかわ あきよし、1948年3月1日 - 1979年1月28日)は、日本のシリアルキラー。大竹市強盗殺人事件と三菱銀行人質事件の犯人。
来歴
1948年(昭和23年)3月1日、広島県佐伯郡小方村(現・大竹市)で父親の勤務する三菱レイヨンの社宅で生まれる。父親46歳、母親42歳の高齢出産であった。姉がいたが夭折している。1954年(昭和29年)4月、小方町立小方小学校(現・大竹市立小方小学校)に入学。8歳の時、父親が椎間板ヘルニアとリューマチの悪化で働けなくなり、10歳の時、両親が離婚。梅川は父親の故郷の香川県大川郡引田町(現・東かがわ市)に引き取られる。その後、父との生活を嫌い、大竹市で暮らす母の元に戻る。母は独身寮の炊事婦で生計を立てており、生活は極貧だったが、母は梅川の欲しがるものを何でも買い与え、梅川は甘やかされて育った。
1960年(昭和35年)4月、大竹市立小方中学校に入学。梅川は広島県立宮島工業高等学校を受験するが失敗。1963年(昭和38年)4月、私立広島工業大学附属工業高校(現・広島工業大学高等学校)に入学。在学したのは1学期だけで、同年10月、父の暮らす引田町に戻る。だが、すぐ大竹市に戻り、同年12月、大竹市強盗殺人事件を起こす。
1964年(昭和39年)1月21日、岡山中等少年院に入院したが、わずか4ヵ月後に脱走し、同年5月14日、山口県の特別少年院「新光学院」に送られた後、1965年(昭和40年)6月7日に仮退院を許可される。少年院を退院後、梅川は引田町に住む両親の元に引き取られたが、1966年(昭和41年)1月、高松市の保護観察所に無断で家出し、行方不明となる。
1年後の1967年(昭和42年)2月、梅川が大阪府大阪市西成区玉出のアパートで暮らしていることが分かり、同地区担当の保護司が梅川の元を訪ねる。梅川はバーテンダーや飲食店のツケの取り立て等をして生計を立てており、勤務態度は真面目で、客や同僚とトラブルを起こすこともなかったという。大阪保護観察所の指導を受けることになった梅川は、1968年(昭和43年)3月1日、満20歳で保護観察を打ち切られ、晴れて社会復帰を果たす。
1973年(昭和48年)7月26日付で大阪府警察住吉署から猟銃の所持許可を取得。銃刀法5条の許可基準の欠格事項に該当するとみられたが、少年法60条により許可。合法的に入手した猟銃で1979年(昭和54年)1月26日に三菱銀行人質事件を起こし、銀行員と警察官ら4人を殺害し籠城。男子行員の耳を削ぎ、女子行員を全裸にさせる等の蛮行を重ね、1月28日、突入した特殊部隊に狙撃され死亡した。満30歳没。
参考文献
- 麻生幾 『封印されていた文書(ドシエ)』 新潮文庫、2002年
関連項目
外部リンク