松平 忠済(まつだいら ただまさ)は、江戸時代中期から後期にかけての大名。信濃国上田藩4代藩主。官位は従五位下・左衛門佐、伊賀守。伊賀守系藤井松平家6代。
生涯
寛延4年(1751年)8月24日、3代藩主・松平忠順の長男として上田で誕生した。
天明3年(1783年)、父の死去により家督を継ぐ。幕命による普請手伝いや桜田御門番、西の丸大手門番などを歴任したため、藩財政が悪化した。明和6年(1769年)に従五位下・左衛門佐に叙位・任官する。武芸を奨励し、武芸稽古所を創設した。
長男の忠英が早世すると、晩年には家督相続をめぐっての争いが起こり、忠済は分家の忠学を養子として迎え、文化9年(1812年)5月6日に家督を忠学に譲って隠居した。文政11年(1828年)7月26日に江戸で死去した。享年78。
系譜
父母
正室
側室
子女
養子
長男の忠英は嫡子だったが、家督相続前に21歳で死去した。四男の忠和は5代藩主・忠学の養子となったものの、これも23歳で早世し、伊賀守系藤井松平家の嫡流は絶えた。次女が忠学の正室となり、他家に嫁いだ娘は6人いる。
藤井松平家 上田藩4代藩主 (1783年 - 1812年) |
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