松平 吉邦(まつだいら よしくに)は、江戸時代中期の大名。越前国福井藩8代藩主[注釈 1]。官位は従四位下・左近衛権少将、伊予守。
生涯
延宝9年(1681年)1月12日、越前松岡藩主・松平昌勝の六男として江戸にて誕生した。母は秋山氏。幼名は勝千代。のち父より1字を取って諱を昌尚(まさなお)と名乗る。元禄14年(1701年)3月5日、叔父で7代藩主に就任(再任)していた松平昌明(昌親)の養嗣子となり、同年12月18日、従四位下・大炊頭に叙任、昌邦(まさくに)と諱を改めた。
宝永元年(1704年)10月28日、昌明が5代将軍・徳川綱吉より越前家の慣例通りに一字(偏諱)を拝領して「吉品」と改名した際に、昌邦も同じく一字を拝領して「吉邦」と改名、同年12月11日、侍従に任じられた。宝永7年(1710年)7月5日、吉品の隠居により跡を継いだ。正徳4年12月18日(1715年)、左近衛少将に任じられ、伊予守を名乗る。
享保6年(1721年)12月4日、福井にて41歳で死去し、父から越前松岡藩主を継いでいた兄の昌平改め宗昌が跡を継いだ。墓所は福井県福井市足羽の運正寺、東京都品川区南品川海晏寺。院号は昇安院。
吉邦の言動をまとめた記録「明君言動録」が残っている。
藩政
藩政においては「御国反乱程之困窮」といわれた財政の再建に力を入れた。正徳元年(1711年)11月、藩内に倹約令を出し、勘定奉行の田中条左衛門を罷免して人事を一新し、さらに経費節減や倹約を推進し、民政にも尽力した。特に民政では領民に対して善政を敷いて大いに慕われ、倹約においてもその方針が時の将軍・徳川吉宗の政策と一致し、吉宗から大いに賞賛されたと言われている。これが好評を受けてか、享保5年(1720年)から、越前国内の幕府領のうち10万石余が預けられること(預所)となった。預所は時折の増減を経ながら、廃藩まで預けられた。
享保年間に、藩の祐筆の松波正有の編纂による「帰鴈記」が完成した。これは越前国内の名所、城跡、社寺(跡)、山川などの地誌であり、写本の奥書によると、正徳2年(1712年)には一応の稿が完成していたが、史跡調査に関心の高かった吉邦が補訂充実を命じ、享保年間に至って藩へ提出したらしい。
これに影響を受けたのか、吉邦の上命により享保5年(1720年)「越前国城跡考」(「越前国古城跡并館屋敷蹟」「越前国古城館屋敷改帳」)が編纂された。これは越前国の全域(自領、幕府領、他藩領を問わず)を調査し、城跡152か所、館跡64か所、屋敷跡105か所など合計330か所の城郭遺跡を調査・レポートしたものである。享保3年(1718年)に儒者の伊藤龍洲に命じ、第6代藩主・綱昌の代に編纂された家史を増改訂する形で、「越前世譜」(一冊本)を完成させた。1冊のうちに藩主の代ごとに巻を立て、初代秀康から先代吉品までが記録されている。
また吉邦は父の昌勝に似て、大の相撲好きであったと伝わり、相撲に関しての多くの逸話が残っている。
正徳4年(1714年)7月、兵法家・軍学者の大道寺友山を客分として召抱えた。
系譜
脚注
注釈
- ^ 一般には福井藩第3代と数える松平忠昌以降を別系統(別藩)と捉える学説・主張もあり、それに従えば第6代となる。
出典
越前松平家 福井藩8代藩主 (1710年 - 1721年) |
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北荘藩 |
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福井藩 |
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