松居 松葉(まつい しょうよう、1870年3月19日(明治3年2月18日[1]) - 1933年(昭和8年)7月14日[1])は、劇作家、演出家、小説家、翻訳家。別号に、松翁・駿河町人・大久保二八など。
父真房・母鶴子の長男として、陸前国塩釜(現・宮城県塩竈市)に生まれた[1]。幼名は雄児、2歳のときに真玄(まさはる)と改めた[1]。養子だった父は、1876年生家に戻り、真玄は親戚に預けられた。母は再婚した。
1877年(明治10年)(7歳)、宮城県師範学校付属小学校に入り、1880年、宮城尋常中学校に進んだが、経済的事情から1883年中退して、丁稚奉公に出た。
1887年(17歳)上京して専修学校に、次いで国民英学会に学び[1]、1889年卒業した。この頃から歌舞伎に通った。文学を志し坪内逍遙に師事し、1891年の『早稲田文学』創刊から編集に就いた[1]。
1894年(明治27年)、初めての脚本『昇旭朝鮮太平記』を読売新聞に発表し[1]、1895年中央新聞、1896年報知新聞、1897年万朝報の記者として劇評を書いた[1]。1899年、初代市川左団次のために『悪源太』を書き、それが明治座で上演された[1]。この上演が座付きでない文士の作品を歌舞伎が取り上げた最初だった[1][2]。続いて、『源三位頼政』『後藤又兵衛』『敵国降伏』も上演された。
1904年(明治37年)に左團次が没すると、その長男で二代目市川莚升の売り出しに尽力し、明治座の相談役となるが辞職する[1]。1906年にかけて『粗忽の使者』、『江戸気性』を書き、ユーゴーの『エルナニ』を翻案して与えたほか、新派の伊井蓉峰や高田実にも脚本を書いた。
1906年、ヨーロッパへ演劇研究に渡り、翌年、二代目左団次襲名後の莚升を呼んで英・仏・独の演劇を学ばせた。そして1908年、書き下ろしの『袈裟と盛遠』ほかを上演させたが、興行的には失敗し、東京を去った。
1909年(明治42年)、三越の嘱託になって『三越タイムス』を編集し、また、発足した坪内逍遙・島村抱月の文芸協会演劇研究所に招かれて講師を勤めた。1911年、新開場の帝国劇場の演劇主任を引き受けたが三越側の苦情でやめ、1913年、抱月脱退後の文芸協会を指導したものの間もなく解散となり、次いで河合武雄と『公衆劇団』を組織した。
1918年(大正7年)、三越を退き松竹の文芸顧問となって台本を書き舞台を監督をした。1919年、欧米の劇団を視察。帰国後、暫く休養した。1922年、演劇活動を再開し、また、1927年、電気療法を会得して診療し、1929年には合気道の免許を受け、1930年からはフロイトを研究し、1933年からはギリシャ語を修めてエディプス王を翻訳し上演した。
1933年夏、糖尿病を悪化させ[1]、リンパ腺炎に尿毒症を併発して没した。63歳。戒名は無名院松翁高風大居士。墓碑は、春性院谷中墓地。乙11号14側通路前にある[3]。
妻・勝(1951年没)、長男・主税(1938年没)、三男・桃多郎(1994年没)
昭和初期に、松葉の作品が上演されない月はないというほどの速筆多作であった[1]。自身は最書いた脚本は140余り、上演されたものは90余りと語ったという[1]。
翻訳は原作者名:『外題』、主演者、劇場(上演年月)、[備考] の順に記す。