李 海瑗(り かいえん/イ・ヘウォン、이 해원、1919年2月24日 - 2020年2月8日)は、李氏朝鮮(大韓帝国)の旧王族の一人で、帝位請求者。最後の朝鮮国王にして初代韓国皇帝である高宗の五男李堈と側室の間に次女として生まれ、高宗の5親等の族甥である李埼鎔(イ・ギヨン)の養女となった。李王家末裔として、全州李氏宗家の第30代当主を主張、「文化大韓帝国(문화대한제국)」の「女帝(여제)」を称し、甥の李源、弟の李錫と争っていた。
出生と結婚
1919年に京城府(現・ソウル特別市)鍾路区の寺洞宮に生まれた。当時、父の李堈は日本の公族であり、公であった。多くの子を儲けたが、公を継いだ李鍵と雲峴宮家の養子になった李鍝以外の子は公族とされなかった[1]。鐘路小学校に通った後、雲峴宮に暮らした。1936年に京畿高等女学校(→旧制中等教育学校の一覧#京畿道、現・京畿女子高等学校)を卒業し、慶應義塾大学卒の李昇圭と結婚して三男一女を儲けたが、李昇圭は朝鮮戦争中に北朝鮮に拉致された。
1992年に米国に移住し、2002年に帰国した[2]。
「文化大韓帝国女帝」
2006年9月29日、李朝の末裔10人余りで結成された団体「大韓帝国皇族会」(2006年5月5日結成、9月29日「大韓帝国皇室」に改称)は、先代当主李玖の死を受けて皇位継承式を開催し、李海瑗を象徴的な女帝に推戴した[3]。これにより李海瑗は「文化大韓帝国[3](문화대한제국)」の「女帝(여제)」を称するようになった。李海瑗は、皇室の代表全権、皇室の維持保存事業権、次期当主の指名権などを有するとされる[3]。
南延君・李球の末裔によると、皇位継承式は「大韓民国にも皇室が存在していることを全世界に知らせるためのもの」だという[3]。大韓帝国皇族会は大韓民国政府と海外のロイヤルファミリー関係者に正式に報告するとともに、海外のロイヤルファミリーとの交流も進めていく計画だとした[3]。しかし政府はこのことについて何ら公式なコメントを出さず、黙殺した。
李朝皇族の子孫たちの大部分が所属する全州李氏大同宗約院をはじめ、わが皇室愛の集まり、大韓皇室再建会など、王党派団体の多くは、李海瑗の推戴を無効として反対の立場を表明している。
皇族会がどんな団体か分からず、李海瑗
翁主のほかには皇室関係者が1人もいない。(中略)大同宗約院が分からないのに何の伝統性があるのか
[4]。
— 「全州李氏大同宗約院」イ・ジョンジェ事務総長
2019年の時点では、李海瑗のほか、李海瑗の弟の子で一般的に正当な当主とされる李源、李海瑗の弟である李錫が旧皇室当主を称しており、3人の帝位請求者が並立している状態であった。しかし韓国政府が所有するウェブサイト「Korea.net(英語版)」では、帝位請求者の存在は2人しか認識されていない(うち一人は李錫と明言されている)[5]。
世論
韓国国内では皇室を韓国文化としてその復活に賛成する立場もあるが、日本の台頭を許した皇室の責任を問う声や、あるいはすでに消滅した皇室の復活運動をするのは時代錯誤である、という反対の立場も多い。
系図
李海瑗の親類・近親・祖先の詳細
李氏朝鮮後期系図
配色:
朝鮮国王
追尊国王・世子
大君・大院君
宗親
両班
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出典
- 先代
- 李玖
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- 大韓帝国皇室の長(自称)
- (第30代を自称:2006年 - )
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- 次代
- ―
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徳寿宮李太王 | | |
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昌徳宮李王 |
- 李坧(1910-1926)
- 李垠(1926-1947)
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昌徳宮李王妃 | |
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王世子 |
- 李垠(1910-1926)
- 李玖(1931-1947)
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公家 |
李熹公家 |
- 李熹(1910-1912)
- 李埈(1912-1917)
- 李鍝(1917-1945)
- 李清(1945-1947)
公妃 |
- 李熹公妃李氏(1910-1947)
- 李埈公妃金氏(1912-1947)
- 李鍝公妃賛珠(朝鮮語版)(1935-1947)
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戰後の当主 | |
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李堈公家 |
- 李堈(1910-1930)
- 李鍵(1930-1947)
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韓国の当主 |
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