本多 忠堯(ほんだ ただとう)は、江戸時代中期の大名。播磨国山崎藩の第4代藩主。官位は従五位下大和守。政信系本多家5代。
略歴
第3代藩主・本多忠辰の長男として誕生。幼名は権次郎。
寛延3年(1750年)、父の死去により跡を継いだ。先々代藩主からの災難続きで藩財政は破綻寸前となっており、窮民は増加していたため、商人から銀90貫を借り入れて藩政改革を行なおうとしたが、筆頭家老が改革反対派から攻撃されて失脚するなどしたため、短期間で失敗に終わった。宝暦11年(1761年)2月25日、25歳で死去し、跡を妹婿の忠可が継いだ。法号は広善院殿前和州宰吏定誉宗厳了演大居士。墓所は東京都江東区三好の雲光院。
系譜
本多氏 山崎藩4代藩主 (1750年 - 1761年) |
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池田家(輝澄系) |
- 池田輝澄1615-1640
- 家中不取締りを理由に改易
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松井松平家 | |
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池田家(恒元系) | |
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本多家 | |
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