木村定三

きむら ていぞう

木村 定三
生誕 (1913-03-01) 1913年3月1日
愛知県名古屋市
死没 (2003-01-21) 2003年1月21日(89歳没)
国籍 日本の旗 日本
出身校 東京帝国大学法学部
職業 実業家美術品収集家
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木村 定三(きむら ていぞう、1913年大正2年〉3月1日 - 2003年平成14年〉1月21日)は、愛知県名古屋市出身の実業家美術品収集家。

特に熊谷守一の収集家として知られていた。晩年や没後にはコレクションが愛知県美術館に寄贈されており、愛知県美術館は3309点の木村定三コレクションを有している。

経歴

青年期

1913年(大正2年)3月1日、木村定治郎ととくの三男として、愛知県名古屋市に生まれた[1][2]。定治郎は名古屋市中区で肥料米穀仲買を商い、名古屋市内に多数の土地や家屋を所有する大地主でもあった[1][2]。定治郎は大正初期に米穀肥料商を廃業し、土地や家屋の管理に専念していた[3]

1929年(昭和4年)に旧制愛知県熱田中学校(現・愛知県立瑞陵高等学校)を卒業し、第八高等学校(現・名古屋大学)文科甲類に入学した[1][2]。1932年(昭和7年)3月には第八高等学校を卒業し、同年4月には東京帝国大学法学部に入学した[1][2]。高等学校時の成績は優秀で、文科甲類に所属した同窓生71人中2番目であった[1]。1935年(昭和10年)には高等文官試験行政科に合格し、1936年(昭和9年)に東京帝国大学法学部政治学科を卒業した[2]

実業家として

熊谷守一

大学卒業後には官僚などになることなく、帰郷して家業に従事した[2]。なお、1930年(昭和5年)には長兄の木村定一が死去している[3]。卒業前年の1935年(昭和10年)4月には父の定治郎が死去し、次兄の木村定二が木村家の家督を継いだ[2]。なお、与謝蕪村『富嶽列松図』は父の遺品である[4]

次兄の定二は1907年(明治40年)に生まれ、定三同様に第八高等学校や東京帝国大学法学部を卒業し、名古屋起毛合名会社代表を務めた人物である[2][5]。父の定治郎は書画骨董を趣味とし、次兄の定二も謡曲和歌俳句・書画・骨董を趣味としていた[5]

1966年(昭和41年)には名古屋市に新納屋橋ビルを建て、大名古屋建物株式会社の社長に就任した[4][6]

熊谷守一との出会い

1938年(昭和13年)12月、丸善名古屋支店で「新毛筆画展覧会」が開催された際、木村は初めて熊谷守一と出会った[2][7]。この展覧会で熊谷芸術に魅せられた木村は、「蒲公英に蝦蟆」「蝦蟆に蟻」「富士山に蕃南瓜」の3点を購入した[2]。これが木村定三コレクションの始まりである[8]。この時木村は25歳、熊谷は58歳だったが、「絵が面白いから百枚までは買ってやる」と豪語したという[2]

この出会いから熊谷守一との39年に渡る交流が始まり[7]、1977年(昭和52年)に熊谷が死去するまで、木村は熊谷にとって最大の支援者だった[2]。毎年のように、木村は名古屋に熊谷を招いて展覧会を開催し、また熊谷の作品を購入した[2]。1969年(昭和44年)には日本経済新聞社から『熊谷守一作品撰集』を上梓している。

美術品収集家として

愛知県美術館
抑、美術品は生活の必需品ではないから、そのものから精神的感銘を受けないならば、いかに安価なものでも、それを買うことは贅沢である。しかし精神的感銘を受けるならば、いかに高価なものでも贅沢ではない。何となれば、精神的感銘を受けると言うことは、人格完成の為の必須要件であるからだ。 — 木村定三[9]
人間の受ける精神的感銘の中で最高なるものは「厳粛感」と「法悦感」の二つである。両者は受ける感じが、全く異るけれども、その間優劣がない。 — 木村定三[9]

熊谷守一を皮切りに、池大雅与謝蕪村浦上玉堂青木木米富岡鉄斎小川芋銭岸田劉生村上華岳平福百穂らの作品を重点的に収集した[9]。精神的感銘を受ける作家・作品を嗜好しており、厳粛感や法悦感が重要であると考えている[9]。1958年(昭和33年)時点の存命作家で、厳粛感でいえばパブロ・ピカソ、法悦感でいえば熊谷守一が一番であるとし、物故作家では、厳粛感でいえば横綱が浦上玉堂で大関が与謝蕪村、法悦感でいえば横綱が小川芋銭で大関が池大雅としている[9]

晩年、いずれも重要文化財の与謝蕪村『富嶽列松図』と浦上玉堂『山紅於染図』、近世・近代の作品140点、北魏石仏等古美術品16点、考古工芸資料177件を愛知県美術館に対して寄託・寄贈した[10]。2003年(平成15年)1月23日、肺炎のために名古屋市で死去した[10]。死去前から愛知県図書館では展覧会の準備が進められており、同年3月1日から3月30日には展覧会「時の贈りもの 収蔵記念 木村定三コレクション特別公開」が開催された[10]。愛知県美術館には木村定三コレクション室が設置されている[10]

死去5年後の2008年(平成20年)1月25日から3月23日、愛知県美術館で展覧会「木村定三コレクション名作展」が開催された。

木村定三コレクション

浦上玉堂『山紅於染図』

特徴

収集分野は非常に多岐にわたり、書画、洋画、金工芸、木工芸、陶芸、民芸、考古出土品などがある[11]

そのコレクションは生前、および没後に愛知県美術館へ寄贈された[12]。愛知県美術館に寄贈された作品の総点数は、資料によって差があるが、『愛知県美術館年報 2021年度版』によると3309点[13]

木村定三コレクションのうち、熊谷守一の作品は214点である[2]。その内訳は、油彩画49点、日本画100点、素描6点、書42点、陶磁器14点、彫刻3点である[2]。1920年代から1960年代までの広い時代の作品があるが、熊谷の人気が高まった1965年(昭和40年)以降の作品がないという特徴がある[2]

主な所蔵作品

重要文化財に3件6点[14]が指定されている。

与謝蕪村『富嶽列松図』

脚注

  1. ^ a b c d e 牧野 2003, p. 10.
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 『木村定三コレクション名作選』愛知県美術館、2008年、9-11頁。 
  3. ^ a b 『事業及人物 記念号』東京電報通信社、1938年、659-660頁。 
  4. ^ a b 『木村定三コレクション名作選』愛知県美術館、2008年、194-197頁。 
  5. ^ a b 『大衆人事録 中部篇』帝国秘密探偵社、1940年、56頁。 
  6. ^ 牧野研一郎「木村定三コレクション覚書」『木村定三コレクション選』、愛知県美術館、2003年。 
  7. ^ a b 足立 2019, p. 95.
  8. ^ 牧野 2008, p. 10.
  9. ^ a b c d e 木村定三「私の書画遍歴 木村定三」『南画研究』第20号、中央公論美術出版、1958年12月。 
  10. ^ a b c d 木村定三」『日本美術年鑑 平成16年版』東京文化財研究所、2004年、p.295
  11. ^ 『木村定三コレクション作品目録 2006年度版』愛知県美術館、2007年。 
  12. ^ 木村定三コレクション研究報告書2 2007』愛知県美術館、2008年3月、20頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/11479396 
  13. ^ 愛知県美術館年報 2021年度版』愛知県美術館、2023年3月https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/12970537 
  14. ^ 『愛知県美術館 研究紀要 第26号』p.86 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/11479550

参考文献

  • 『熊谷守一 木村定三コレクション』愛知県美術館、2004年。 
  • 村田眞宏ら 編『木村定三研究コレクション研究報告書 1』2007年3月。 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/11479395
  • 高橋秀治ら 編『木村定三コレクション研究報告書 2 2007 コレクター木村定三研究の基礎資料』愛知県図書館、2008年8月。 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/11479396
  • 『木村定三コレクション選』愛知県美術館、2003年3月。 
  • 『木村定三コレクション名作選』愛知県美術館、2008年。 
  • 足立 好弘 著「木村定三コレクションの熊谷守一 -手帳等を手掛りに見る熊谷作品群形成の軌跡」、平瀬礼太 編『愛知県美術館研究紀要 第25号 木村定三コレクション編』愛知県美術館、2019年3月。 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/11479564