悪地の戦い(あくちのたたかい、英: Battle of the Badlands)は、1864年8月7日から9日に、アメリカ陸軍アルフレッド・サリー准将がダコタ準州で、ラコタ族、ヤンクトナイ族、ダコタ・スー族インディアンに対する遠征を行った間に起きた戦闘である[1][2]。現在のノースダコタ州メドラ市とセンティネルビュート市の間で起きた。1862年のダコタ戦争で始まった紛争の延長だった。サリーの部隊は悪地を通って進軍し、スー族から大した抵抗も受けなかった。
8月6日、サリー隊はリトルミズーリ川の岸で宿営した。翌朝、スー族の小集団がアイオワ第7騎兵隊の馬群を襲い、連隊の1個中隊を待ち伏せすることで敵意を露わにした。数百人のスー族戦士がサリー隊宿営地に近い丘の上に現れた。大砲の砲弾数発で彼らを追い払ったが、兵士達は神経質な夜を過ごすことになった。翌朝、サリーとその部隊は悪地を抜けて進撃を続けた。サリーは防御について最大の注意を払ったが、サリーの推計では1,000名にも及ぶ大勢のインディアン戦士が、前面や側面の崖や丘に現れた。インディアンは矢をサリー隊に降り注がせ、サリー隊に重大な危害を与えるべく、近くまで忍び寄ろうとし、岩がちな地形に3マイル (5 km) も4マイル (6 km) も並んでいることがあった。サリーは大砲で応じさせ、また幾らかの騎兵にも反撃させた。スー族による襲撃は決断的なものよりも散発的なものだった。この日の終わり近く、サリーのブラックフット族斥候が負傷した[10]。
8月8日、スー族に拠る抵抗があったにも拘わらず、サリー隊は約10マイル (16 km) 前進した。翌日、その前面に大勢のインディアンが嫌がらせをしようと待ち受けているのに出くわした。正午頃、サリー隊は悪地を抜け出して、大きく平坦な平原に出てきた。砲兵隊を動かし大砲を据える空間があったので、間もなくインディアンを追い払い、戦闘は終わった。サリーは大きくて、放棄されたばかりのインディアン宿営地の後を発見した。インディアン達は明らかにあらゆる方向に逃亡していた[11]。
悪地の戦いでのスー族の戦術は、戦闘というよりも走りながらの小競り合いであり、アメリカ軍兵士に嫌がらせを行い、その進行を遅らせ、兵士や馬から水を奪うことだった。この戦術は、サリー隊が乾燥した荒野を抜けて50マイル (80 km) ほど離れたイエローストーン川に到着して、敵対感が無くなった後で働き始めた。兵士は食料が不足し、コーヒーは1人1パイントしかなく、毎日アルカリ水で過ごしていた。遠征に連れて行った家畜は渇きのために大量に死んだ。8月12日、部隊はイエローストーン川に到着し、そこで物資を積載した2隻の蒸気船を発見した。馬のために飼料の草も水も無いという難しい状況にあったので、サリー隊はその後下流に動き、イエローストーン川とミズーリ川の合流点に造ったユニオン砦に到着したときに、スー族が押し寄せて砦に属する馬を2頭を残して全て盗んでいっていたことを発見した。馬に不足し、兵士達は疲れ切っていたので、サリーはスー族に対する遠征を続けるという作戦を止めることにした[12]。
^Barsness, John and Dickinson, William. "Cannoneer's Hop: The Sully Campaign, 1864Montana: The Magazine of Western History, Vol. 16, No. 3 (Summer 1966), p. 29
^United States War Department. The War of the Rebellion: a Compilation of the official Records of the United States and the Confederacy, Series 1, Vol 41 (part l), p. 135