岸本 忠三(きしもと ただみつ、1939年(昭和14年)5月7日 - )は、日本の免疫学者。小泉内閣の総合科学技術会議議員として選択と集中・研究者雇用の任期制転換を推進した。インターロイキン-6(IL-6)の発見者であり、免疫学の世界的権威として知られる。
大阪府富田林市生まれ。文化功労者、文化勲章受勲。大阪大学名誉教授、第14代大阪大学総長。医学博士(大阪大学・1969年)。
経歴
1964年大阪大学医学部卒業、第三内科(山村雄一教授)に大学院生として入局。1970年から4年間米国ジョンズ・ホプキンス大学留学。帰国後、第三内科助手、1979年医学部病理病態学教授、1983年細胞工学センター教授を経て1991年より第三内科教授。この間一貫して免疫学の研究にとりくみ、Bリンパ球増殖、分化機構を解明し、平野俊夫とともにインターロイキン6(IL-6)を発見する。その後、IL-6とその受容体、シグナル伝達、病気との関連等の一連の研究によりサイトカインに関するパラダイムを確立する。これらの業績に対し、朝日賞、恩賜賞・日本学士院賞をはじめ、内外の多くの賞を受けると共に、文化功労者、日本学士院会員、米国科学アカデミー外国人会員、文化勲章受章、ロベルト・コッホゴールドメダル(ドイツコッホ財団)受賞、クラフォード賞(スウェーデン王立科学アカデミー)等の栄誉を受けた。
1997年大阪大学総長に就任。2003年8月に総長職を退官。2004年1月から2006年6月まで総合科学技術会議議員に就任。2006年7月より大阪大学教授生命機能研究科に復帰、2007年4月より千里ライフサイエンス振興財団理事長に就任。同月、第27回日本医学会総会会頭を務める。
科学研究「選択と集中」「任期つき研究者増加」の提唱者としての功罪
2004年から2006年には小泉純一郎内閣の総合科学技術会議議員として、のちに批判をあびることになる「選択と集中」を強力に推し進めた[1][2][3]。岸本が行った提言は、(1)選択と集中として予算配分を一部の研究機関・研究者に集中させること、(2)競争的環境をつくること、(3)大学の研究者を終身雇用から任期付き雇用へと転換することであった[1]。なお、この提言を行った2004年当時、任期付き研究者は国立大学で研究者全体の5%程度しかいなかったが、岸本の提言の10年後、2014年には44%まで増加した[4]。
当時の同会議の議員は小泉純一郎首相のほか、竹中平蔵、二階俊博ら自民党議員のほか、日本学術会議会長の黒川清が含まれた[1]。
この「選択と集中」の方針は、ライフサイエンス、特に岸本忠三が専門とする免疫学分野への大規模な投資を促した。その成果の一つが、2007年に始まった「世界トップレベル研究拠点プログラム(WPI)」である。それまで広く分配されていた科学研究費を、「選ばれた」一部の研究拠点に集中配分するもので、1拠点あたり年間5~20億円が支給された[5]。岸本が所属する大阪大学免疫学フロンティア研究センターは、プログラム発足当初の2007年から支援を受け続けており[6]、2024年現在も岸本は同センターで教授として活動している[7]。
過度の「選択と集中」というこれまでの研究投資のあり方が日本の研究力の地盤沈下につながったと考えている研究者は多い[8][9]。ノーベル賞学者・大隅良典博士は「選択と集中」が新しい研究の芽を摘み、日本の研究力を弱体化したと考えている[10]。2019年には日本学術会議が「第6期科学技術基本計画に向けての提言」を行い、過度の「選択と集中」について反省し、日本の学術の持続可能な発展を確保するには、各種のバランスのとれた資金配分が必要であることを指摘した[11]。
2015年、岸本忠三は過去に「選択と集中」戦略を推し進めたことについて語りました。彼は、「教授は終身雇用では競争できず」と指摘し、競争原理を導入する場合、「きちんとした評価が前提になるが、往々にして日本の場合には正当な評価ができないことも問題」と述べました。さらに、「日本も教員などの任期制、競争的研究資金などをもっと導入し、人件費も研究費で賄うような形を入れていくべき」と主張した[12]。
岸本忠三の選択と集中政策の影響と批判
岸本忠三が2004年から推進した「選択と集中」政策は、日本の大学の雇用体系に大きな変化をもたらした。特に、任期制の導入と研究費の集中配分により、研究者の研究環境と生活が決定的に不安定化した。岸本による任期制度の導入後、任期付き研究者の割合が増加し、研究者たちの雇用不安が顕著になった。この政策によって引き起こされた「10年ルール」は、研究者の雇い止め問題を浮き彫りにした[13]。こうした大きな研究環境の変化が、日本の研究力の後退を加速させ、論文の数量と質の低下が著しく、2024年には国際的なランキングでイランよりも下の13番目に後退する事態となっている[14]。
このように岸本が推し進めた政策は、研究資金を「選ばれた」研究拠点に集中配分することで、一部の研究者や機関に利益をもたらす一方で、多くの研究者が直面する不透明な評価基準や競争的な環境に対して、十分なサポートが提供されていないという問題点が指摘されている[13]。
ここで注目されるのは、岸本自身が85歳まで継続して教授の地位に留まっていること[7]である。これに対して、研究者コミュニティ内外からは強い批判があり、彼の地位が特権的であると見なされている。この状況は、彼が推し進めた政策の意図とは裏腹に、自らは安定した職位を享受しているという矛盾を浮き彫りにしている。
略歴
学会役職
- 1986年 - 1997年 日米医学免疫部会 会長
- 1986年 - 1992年 国際免疫学会連合 理事
- 1991年 - 1992年 日本免疫学会 会長
- 1991年 - 1994年 国際免疫薬理学会 会長
- 1994年 - 1995年 国際サイトカイン学会 会長
- 1997年 - 1998年 日本アレルギー学会 会長
- 1997年 - 日本臨床免疫学会 理事長
学外における役職
- 文部科学省中央教育審議会委員(第1期 - 第2期)
- 大阪ガス取締役(2007年6月28日より2013年6月末まで)
- 日本学士院会員(1995年より)
- 朝日賞選考委員(2008年度より)
- 財団法人持田記念医学薬学振興財団理事
- 財団法人加藤記念バイオサイエンス研究振興財団理事
- 公益財団法人千里ライフサイエンス振興財団理事長
- 財団法人細胞科学研究財団理事
- 財団法人高松宮妃癌研究基金学術委員* 財団法人かなえ医薬振興財団理事
- 財団法人山田科学振興財団理事
- 財団法人村田学術振興財団理事
- 財団法人東洋紡百周年記念バイオテクノロジー研究財団理事
- 財団法人三共生命科学研究振興財団評議員
- 財団法人臨床薬理研究振興財団評議員
- 財団法人朝日新聞文化財団理事
- 財団法人サントリー生物有機科学研究所理事
専門業績
インターロイキンなどのたんぱく質の構造を解明
学術賞
栄誉・叙勲
著書
- 「なぜかと問いかける内科学 岸本忠三教授の講義ノート』全3巻 中山書店 1995
- 「いのちの不思議 大阪大学新世紀セミナー」大阪大学出版会 2005
- 『免疫難病の克服をめざして』中山書店, 2012.11
- 『ライフサイエンスのトップランナー16人と語る 新版千客万来 (岸本忠三対談集)』千里ライフサイエンス振興財団, 2013.12
- 『岸本忠三第14代大阪大学総長回顧録』大阪大学共創機構社学共創本部アーカイブズ,飯塚一幸,菅真城編. 大阪大学出版会, 2018.3
- 『ライフサイエンスのフロンティアを拓く13の物語 (岸本忠三対談集 千客万来 3)』千里ライフサイエンス振興財団, 2018.8
共編著・監修
- 『免疫学』全5巻 渡辺武 平野俊夫ほか共編集. 中山書店, 1981-82
- 『岩波講座免疫科学 3 免疫担当細胞』渡辺武共編 岩波書店, 1986.3
- 『岩波講座免疫科学 1 免疫学入門』山村雄一共編 岩波書店, 1986.5
- 『現代免疫物語 花粉症や移植が教える生命の不思議』中嶋彰共著. 日本経済新聞社, 2000.11
- 『細胞生物学セレクテッドレビュー』1-2 西塚泰美共監修. 中山書店, 2001-04
- 『バイオの衝撃 ここまできたゲノム創薬&再生医療』監修 (B&Tブックス) 日刊工業新聞社, 2003.3
- 「現代免疫物語―花粉症や移植が教える生命の不思議」中嶋彰共著 講談社ブルーバックス 2007
- 『感染症と生体防御 新訂』河原和夫,岩本愛吉共編著. 放送大学教育振興会, 2008.3
- 『「抗体医薬」と「自然免疫」の驚異 新・現代免疫物語』中嶋彰共著 講談社ブルーバックス 2009.3
- 『免疫が挑むがんと難病 現代免疫物語beyond』中嶋彰共著 講談社ブルーバックス 2016.1
脚注
出典
外部リンク
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前身諸学校・大学長 |
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大阪医科大学長 |
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大阪府立高等医学校長 | |
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(旧制専門学校)府立大阪医科大学長 | |
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大阪医科大学長 | |
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| | | | | 大阪大学附属医学専門部長 |
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大阪帝国大学臨時附属医学専門部主事 | |
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大阪帝国大学附属医学専門部長 | |
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大阪大学附属医学専門部長 | |
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