岡本 鎮臣(おかもと しずおみ、1888年(明治21年)10月1日 - 1962年(昭和37年)11月22日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。功四級
経歴
1888年(明治21年)に熊本県で生まれた。陸軍士官学校第22期、陸軍大学校第35期卒業。1935年(昭和10年)3月15日に陸軍歩兵大佐進級と同時に和歌山連隊区司令官に着任。1937年(昭和12年)3月の歩兵第23連隊長(第1軍・第6師団・歩兵第36旅団)に転じ、日中戦争に出動。保定会戦の激戦を戦い抜き、石家荘会戦にも参加。その後第10軍隷下に編入され、華南に進出。杭州湾上陸作戦、南京戦、広州での掃討戦で大なる戦果を収めた。1938年(昭和13年)5月14日に留守第6師団司令部附となった。
同年7月15日に陸軍少将に進級し、1939年(昭和14年)12月に歩兵第21旅団長(第2軍・第5師団)に就任し、中国戦線に復帰。賓陽作戦、江南作戦に参加したが、第5師団の仏印進駐前の1940年(昭和15年)10月15日に留守第5師団司令部附となった。1941年(昭和16年)3月1日に待命、3月31日に予備役に編入された。1945年(昭和20年)3月31日に召集され、京城陸軍兵事部長兼京城地区司令官に就任した[3]。
1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[4]。
栄典
- 勲章等
脚注
参考文献