岡崎商工会議所(おかざきしょうこうかいぎしょ、英語: Okazaki Chamber of Commerce and Industry)は、主に愛知県岡崎市内において営業している商工業者・団体で運営されている商工会議所。
概要
岡崎貯金銀行や岡崎銀行を設立した5代目深田三太夫が発起人の一人として設立に尽力。1892年(明治25年)11月15日に岡崎商業会議所として農商務大臣の認可が下りた[2]。設立は全国で16番目、県下では名古屋に次いで2番目であった。2023年(令和5年)4月時点の会員数は、4,409[3]。
なお市内には、商工会法に基づく二つの商工会がある。旧碧海郡六ツ美町区域を管轄とする「岡崎市六ツ美商工会」(1960年(昭和35年)12月設立認可[4])と、旧額田町区域を管轄とする「岡崎市ぬかた商工会」(1961年(昭和36年)1月24日設立認可[5])である。
沿革
ギャラリー
役員
2022年(令和3年)11月1日現在[15]。
役職 |
氏名 |
就任日 |
所属
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会頭 |
大林市郎 |
2016年(平成28年)11月1日 |
岡崎信用金庫会長
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副会頭 |
小原睦 |
2010年(平成22年)11月1日 |
小原建設取締役社長
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副会頭 |
太田健介 |
2016年(平成28年)11月1日 |
太田油脂代表取締役社長
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副会頭 |
河合潤 |
2022年(令和4年)11月1日 |
河合経営経理研究所代表取締役社長
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副会頭 |
早川久右衛門 |
2019年(令和元年)11月1日 |
合資会社八丁味噌代表社員
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専務理事 |
山中賢一 |
2016年(平成28年)11月1日 |
岡崎商工会議所
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歴代会頭
代 |
氏名 |
就任日 |
退任日
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仮 |
深田三太夫(五代) |
1892年(明治25年)11月15日 |
1893年(明治26年)03月28日
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初代 |
今井磯一郎 |
1893年(明治26年)04月04日 |
1895年(明治28年)03月19日
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2代 |
小野権右衛門 |
1895年(明治28年)03月19日 |
1897年(明治30年)03月29日
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3代 |
深田三太夫(五代) |
1897年(明治30年)03月29日 |
1899年(明治32年)10月13日
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4代 |
小野権右衛門 |
1899年(明治32年)10月13日 |
1905年(明治38年)06月15日
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5代 |
加藤賢治郎 |
1905年(明治38年)06月15日 |
1908年(明治41年)03月24日
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6代 |
中根与七 |
1908年(明治41年)03月24日 |
1911年(明治44年)04月18日
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7代 |
深田三太夫(六代) |
1911年(明治44年)04月18日 |
1917年(大正06年)04月25日
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8代 |
千賀千太郎 |
1917年(大正06年)04月25日 |
1925年(大正14年)01月25日
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9代 |
深田三太夫(六代) |
1925年(大正14年)04月29日 |
1929年(昭和04年)04月19日
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10代 |
千賀千太郎 |
1929年(昭和04年)04月19日 |
1933年(昭和08年)04月21日
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11代 |
近藤重三郎 |
1933年(昭和08年)04月21日 |
1941年(昭和16年)04月07日
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12代 |
鳥居吉造[注 4] |
1941年(昭和16年)04月07日 |
1943年(昭和18年)09月30日
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1943年(昭和18年)10月01日 |
1946年(昭和21年)08月30日
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13代 |
1946年(昭和21年)10月12日 |
1947年(昭和22年)03月27日
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14代 |
千賀千太郎 |
1947年(昭和22年)05月13日 |
1947年(昭和22年)11月24日
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15代 |
田口宗平 |
1947年(昭和22年)12月11日 |
1961年(昭和36年)03月31日
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16代 |
早川久右エ門 |
1961年(昭和36年)04月01日 |
1970年(昭和45年)03月31日
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17代 |
都築貞一 |
1970年(昭和45年)04月01日 |
1973年(昭和48年)03月31日
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18代 |
服部敏郎 |
1973年(昭和48年)04月01日 |
1982年(昭和57年)03月31日
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19代 |
澤田弘武 |
1982年(昭和57年)04月01日 |
1985年(昭和60年)03月31日
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20代 |
服部國男 |
1985年(昭和60年)04月01日 |
1991年(平成03年)03月31日
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21代 |
小原守 |
1991年(平成03年)04月01日 |
1994年(平成06年)03月31日
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22代 |
大川博美 |
1994年(平成06年)04月01日 |
2004年(平成16年)10月31日
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23代 |
伊藤公正[注 5] |
2004年(平成16年)11月01日 |
2010年(平成22年)10月31日
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24代 |
古澤武雄[注 6] |
2010年(平成22年)11月01日 |
2016年(平成28年)10月31日
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25代 |
大林市郎 |
2016年(平成28年)11月01日 |
現職
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脚注
注釈
- ^ 1975年8月、染色業者ら33社が参加して、出資金1億円で三友ニット協業組合が結成された。繊維工業構造改善臨時措置法の適用の下、国と県から1975年度~78年度にわたり低金利で5億6千万円の融資を受け、商品開発センターなどを建設した。ところが石油危機以降の不況、暖冬などの影響により財政危機に陥る。理事長、副理事長、理事の3人は、組合員でない鹿児島県木野市の興南ニットが経営不振で回収の見込みがないと知りながら、1978年3月から無担保で総額約3億円にのぼる融通手形を乱発した。同社の倒産等により、三友ニット協業組合は総額約56億円の負債を抱え1979年4月に倒産した[9]。33社の組合員だけでなく約200社の下請企業が影響を受けた[10]。1980年2月13日、前述の理事長、副理事長、理事は背任の疑いで逮捕された[9]。さらに同年4月28日、組合の倒産にからみ、協和染色社長が中小企業振興事業団から繊維工業改善資金3,700万円をだまし取った容疑で逮捕された[11]。
- ^ 岡崎商工会議所青年部の2015年6月10日時点の会員数は、214名。
- ^ 婦人会は現在の女性部。2015年3月時点の会員数は、86名。
- ^ 1943年10月1日から1946年までの間、岡崎商工会議所は愛知県商工経済会岡崎支部となった。
- ^ 1960年4月、伊藤鉱平は岡崎市伊賀町にポリエステル線製造の富士電線電器(現・富士ファイン)を創業。1976年、息子の伊藤公正が社長に就任[16]。当時、超極細線は西ドイツが国際マーケットでかなりのシェアを占めていたが、伊藤公正は単身渡米し、輸出の道を拓いた。1981年9月、日名西町に本社移転。超極細線専門メーカーとして急成長した[16][17]。2014年、内田康宏市長(当時)が政治団体「未来都市政策調査会」を設立すると、伊藤は会長に就任した[18][19]。
- ^ 1939年3月、古澤静と弟の古澤正男は名古屋市中区向田町に古澤レンズ工場(現・東海光学)を創業[20]。一族の古澤武雄は1983年に代表取締役社長に就任し、2009年に代表取締役会長に就任した[21]。2010年から2016年まで岡崎商工会議所会頭を務め、2017年、内田康宏市長の資金管理団体「康友会」(政治資金規正法上の代表は内田[22])の会長に就任した[23][19]。また、2020年の市長選挙に際しては、内田の別の政治団体「内田やすひろ後援会」「未来都市政策調査会」などに多額の献金を行った[24][25]。
出典
参考文献
関連項目
外部リンク