山名 豊暄(やまな とよあきら)は、江戸時代中期の交代寄合。但馬国村岡領主。
経歴
山名豊就の子。延享4年(1747年)、父の死去により、家督を継いだ。
寛延3年(1750年)の須原屋版武鑑に「七千石 但州志津見 てつほうす 山名主殿」とある。[1]
明和2年(1765年)4月、実子の栄之丞が早世していたため、柳川藩主立花鑑通の弟である立花致知(靱負。立花貞俶の八男)を婿養子とした。[2]。致知は山名家に入って豊貴、後に義徳に改名した。
明和6年(1769年)、死去。享年56。
系譜
脚注
- ^ 「大武鑑・中巻」。なお、同書には延享3年の武鑑の内容も掲載されているが、山名豊就が生存中の時と内容の更新がないので省略。なお延享3年の武鑑の内容は「七千石 但州志津見 てつほうす 山名因幡守 当時寺社御奉行」で元文6年のものと同じ
- ^ 「立花貞俶の八男の貞俊を婿養子とし、義徳と名乗らせ家督を継がせた(翌年5月入部)」とするものもあるが、少なくとも「柳川市別冊・図説立花家記」、「旧柳川藩志・上巻」、「寛政重修諸家譜」のいずれにも山名義徳が柳川藩立花家にいた頃に「立花貞俊」と称した旨の記述は見られない。山名家側史料にある可能性がなくはないので脚注とす。
参考文献
- 「柳川市別冊・図説立花家記」(柳川市・柳川市史編集委員会編集・平成22年(2010年))
- 「旧柳川藩志・上巻」(柳川・山門・三池教育会編、昭和32年)
- 「寛政重修諸家譜」
- 「改訂増補 大武鑑・中巻」(橋本博、名著刊行会、1965年5月10日)