山口 秀景(やまぐち ひでかげ、生年不詳 - 天正11年1月12日〈1583年2月4日〉[2])は、戦国時代の武将。織田信長の家臣[3]。仮名は甚介[4]、受領名は玄蕃[2]。諱は光広、長政とも[2][注釈 1]。子に山口宗永[6]。
略歴
秀景は山城国の国人で[7]、宇治田原城主[5]。
当初は公家・葉室家の侍で、後に将軍・足利義昭に仕え「武家御足軽」となった(『言継卿記』)[2]。その前歴より、山科言継ら公家との連絡に携わる様子が多く見られる[2]。また、織田信長との連絡役も務め、永禄12年(1569年)閏5月には美濃に派遣され、元亀2年(1571年)8月には北近江の信長の陣へと赴いている[2]。
天正元年(1573年)の義昭追放後は、信長に仕えたとみられる[2]。天正3年(1575年)12月には津田宗及の茶会に出席し、天正7年(1579年)9月には宇治川平等院前に橋を架けるよう、松井友閑とともに信長から命じられた[2]。天正10年(1582年)3月には甲州征伐に従軍している[2]。
同年6月に本能寺の変が起こった際は、帰国途中の徳川家康を宇治田原で歓待したという[2]。
天正11年(1583年)1月12日、死去(『兼見卿記』)[2]。
脚注
注釈
出典
参考文献