小笠原長守

 
小笠原 長守
時代 江戸時代後期 - 明治時代
生誕 天保5年7月25日1834年8月29日
死没 明治24年(1891年7月24日
改名 土用犬丸(幼名)、長守
諡号 化堂、古菱、九竜、百忘
戒名 心源院殿大巌義秀大居士
墓所 福井県勝山市の開善寺
東京都台東区松が谷の海禅寺
官位 従五位下、正五位、従四位、左衛門佐
幕府 江戸幕府
越前勝山藩
氏族 小笠原氏
父母 父:小笠原長貴、母:酒井忠道の娘
兄弟 貴富長保長満川勝広運長守
今鶴[1]
長育、鍈、柳生俊久、詮子、細田粲四郎清水健五郎山田量六郎、麗子
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小笠原 長守(おがさわら ながもり)は、越前勝山藩の第8代(最後)の藩主。信嶺系小笠原家10代。

生涯

天保5年(1834年)7月25日、第7代藩主・小笠原長貴の六男として生まれる。天保11年(1840年)5月2日、父の死去により家督を継いだ。嘉永元年(1848年)10月1日、将軍徳川家慶に拝謁する。同年12月16日、従五位下・左衛門佐に叙任する。

当初は長守が幼少のため、林毛川家老として補佐を務めた。毛川は綱紀粛正、人材育成、産物奨励、天保13年(1842年)からの5ヵ年に及ぶ倹約、生活の簡素化など、積極的な藩政改革に努めた。天保14年(1843年)には藩校・成器堂を創設している。嘉永元年(1848年)には軍備を増強し、専売制を確立するなどして、一時的に藩政改革を成功させた。

しかし弘化4年(1847年)に幕命を受けて関東方面の河川手伝い普請を務め、安政2年(1855年)にも安政の大地震で藩邸が崩壊するなどして出費が重なり、藩財政は短期間で悪化した。しかもこれらの被害に加えて、改革における領民に対する普請などの負担が大きかった(砲台建設など)ため、領民から毛川の罷免を求める声が上がり、長守は11月22日に毛川を罷免させた。

その後は親政を行ない、文久3年(1863年)にオランダ式の軍制を採用して軍備を増強し、元治元年(1864年)には大坂加番に任じられた。慶応元年(1865年)には京都守備を務めた。慶応4年(1868年)の戊辰戦争では新政府に協力し、明治2年(1869年)6月の版籍奉還で勝山藩知事に任じられ、明治4年(1871年)の廃藩置県で免官された。

明治6年(1873年)に隠居する。明治24年(1891年)7月24日に死去した。享年58。

詩、書画に優れた文化人であったといわれる。

開善寺の長守と長教の墓(右)。左は信房の墓。

系譜

脚注

  1. ^ a b c 『平成新修旧華族家系大成』上巻、348-349頁。

参考文献