小泉 恭次(こいずみ きょうじ、1886年(明治19年)2月2日 - 1946年(昭和21年)12月10日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
経歴
1886年(明治19年)に山形県米沢市で生まれた。興譲館中学校二年を経て、仙台陸軍幼年学校卒業。1905年(明治38年)に陸軍士官学校第18期を卒業し、1906年(明治39年)に歩兵少尉任官。1915年(大正5年)に陸軍大学校第27期卒業。1927年(昭和2年)に天津駐屯歩兵隊長に就任し、済南事件が発生した際には日本人居留民の保護に当たった。1928年(昭和3年)に東京警備司令部参謀を経て、1930年(昭和5年)に陸軍歩兵大佐に進級し、名古屋連隊区司令官に就任。1932年(昭和7年)に歩兵第16連隊長に転じ、満州事変に出動、馬占山軍と交戦した。
1933年(昭和8年)に近衛歩兵第1連隊長、1935年(昭和10年)3月に仙台陸軍教導学校長と歴任し、8月に陸軍少将に進級。1936年(昭和11年)には二・二六事件の責任を問われ更迭された、佐藤正三郎の後任として歩兵第1旅団長に就任。第1師団隷下部隊として満州に駐屯する。1937年(昭和12年)に第14師団司令部附となり、内地に帰還。1938年(昭和13年)に陸軍中将に進級し、鎮海湾要塞司令官に就任。1939年(昭和14年)3月9日に待命、3月20日に予備役に編入された。
予備役編入後は中華民国新民会(中国語版)中央訓練所長として北京に赴任。1945年(昭和20年)5月5日に召集され、東部軍管区兵務部長に就任。敗戦後の小泉は、阿南惟幾や田中静壱の自決に感銘を受け、自決を考えたが、8月25日に第142師団長に親補され、復員業務に当たる。12月に復員業務は完了し、召集解除となる。外地に出征していた長男の帰りを待ち、復員後の1946年(昭和21年)12月10日に割腹自決した。
脚注
参考文献