寺島家(てらしまけ)は、武家・士族・華族だった日本の家。もとは「松木」姓で、藤原北家中御門流松木家の庶流と伝わり、近世には薩摩藩出水の郷士家だったが、幕末期に寺島宗則が倒幕運動の中で「寺島」に改姓、明治前期に外務卿などを務めた宗則の勲功により華族の伯爵家に列せられた。
歴史
前身の松木氏について
寺島宗則の「寺島」という姓は幕末の頃に政治的な事情で名乗るようになった姓であり(宗則の名も明治以降に使うようになったもの)、もともとの姓は松木である。
松木氏は薩摩藩の出水外城の脇本に住する郷士の家系だった。同家が出水外城の郷士となったのは、慶長末から元和初期にかけての頃と見られ、元和6年の「薩州出水衆中軍役高帳」には「西目衆中」の16番目に「高一石 松木藤右衛門尉」と記載されている。そのことから脇本地区に早くから土着していた武士だったと思われる。
松木氏は、系図によれば藤原北家中御門流松木家の庶流の左少将松木宗信が、猪熊事件の際に勅勘を被って薩摩国甑島に流罪となった際に、現地で甑島衆中梶原宗故の娘を妻にして一男二女を儲け、男子が松木少兵衛宗義と称し、慶応4年(1651年)に薩摩藩に召し出されて小番格(他藩で言う馬廻り役)切り米80俵を賜ったのに始まるという。
同系図によれば、宗義の孫の宗白が寛文10年(1670年)に脇本三文字井上に葬られたと記しており、松木家は彼の代に出水外城の郷士になったと解釈できるが、「薩州出水衆中軍役高帳」の記載人物とは年代が合わず明らかではない。
宗白から6代目の松木武右衛門宗諄(宗則の祖父)は、藩主島津重豪の信任が厚く、藩主の命でオランダ船の洋牛を買い付けたり、漂流した清国船の長崎まで誘導する案内人を務めたり、伊能忠敬が九州南部沿岸の測量のために薩摩を訪れた際にも沿岸を案内を任されている。また郷内にあっては村民や漁民の貧窮を憂い、私費を投じて灌漑設備を村内につくったり、松の植林を施したり窮民賑恤策をとった人物だった。
彼の嫡男である武右衛門宗保(宗則の伯父)は、蘭方医として知られた人物だった。長崎でシーボルトに入門することで評価を得、天保4年(1833年)に長崎居付のまま藩主島津斉興より表医師に任じられ、天保6年(1835年)に藩命で薩摩に帰国した際に一代御小姓組、奥医師に任じられ、この時に郷士身分から城下士の身分に昇格した。さらに朝廷からも法眼の位を与えられる栄に浴した。
寺島宗則の登場
寺島宗則は、天保3年に薩摩藩郷士長野増右衛門祐照の次男として生まれた。父祐照は松木宗諄の次男(宗保の弟)であり、松木家にいた頃の諱は宗成といったが、長野家に養子に入った際に祐照と改名した。
天保7年(1836年)に伯父宗保の男子が早世したため、宗則が5歳で松木家に養子入り。養父とともに長崎へ行き、オランダ語と蘭学を学んで育ち、藩医となるため、弘化2年(1844年)3月に薙髪を許され「松木弘安」と称する。9月に養父が死去して家督相続。その後江戸遊学を命じられ、安政3年(1856年)に幕府蕃書調所教授手伝に任じられ、翌安政4年(1857年)に藩主島津斉彬の侍医にも任じられた。
文久元年(1861年)から翌年にかけて幕府の文久遣欧使節に医師兼通訳として随行し、西欧諸国を視察[12]。文久3年(1863年)に藩主島津忠義の命で帰藩して藩の船奉行となる[12]。
薩摩藩が幕府に独断でイギリスに使節・留学生を送ることを決定すると、渡欧経験のある宗則がその引率者に任命され、慶応元年(1865年)に再度渡欧[12]。イギリス外相第4代クラレンドン伯爵ジョージ・ヴィリアーズと会見し、薩摩藩の目指す政治的変革への助力を要請するとともに、幕府の貿易独占を非難し、薩英の直接貿易を申し入れるなど、薩英の友好と倒幕の促進に貢献した[12]。同年の帰国後も、薩摩を訪問した英国公使ハリー・パークスの接待役に任じられ、小松帯刀や西郷隆盛ら藩重臣とパークス公使の会談に列席するなど藩の外交官として活躍した。
同年7月10日、藩から江戸に駐在してパークスと連絡を取り合うよう命じられた宗則は、藩の許可を得て寺島に改姓し「寺島陶蔵」と名乗るようになった。宗則は以前幕府の蕃書調所に仕えていたから倒幕運動を行うにあたって幕府側に知られている名前を避けるためだった。「寺島」は脇本の自宅から見えた島の名前に由来し、宗則は朝夕と変化するその島の陰影が好きだったという。
江戸と横浜を行き来してパークスとの折衝を重ね、薩英の関係強化に努めた。10月、京都情勢の緊迫化で一旦パークスとの交渉を打ち切って上京し、薩摩藩の大坂藩邸で活動。鳥羽伏見の戦いが開戦すると、大阪藩邸留守居役木場伝内らとともに、事前の手はず通り大阪藩邸を火薬で爆破し、幕府勢力が実効支配していた大阪を脱出した。
幕府滅亡後の明治元年(1868年)1月に政府の参与・外国事務局判事に任じられ、明治2年(1869年)7月の外務省の創設とともに外務大輔(次官)に就任し、各国との条約締結の全権を与えられ、オーストリア、ポルトガル、ハワイとの条約交渉にあたったほか、明治3年の普仏戦争にあたっては局外中立宣言の起草を担当。
明治2年に鹿児島の家族を東京に呼び寄せ、築地木挽町に転居し、その翌年には東京市芝区白金猿町67番地の久留島邸を400両で購入して別邸としたが、明治5年に築地の本邸が焼失したため、こちらが寺島家の本邸となった。
明治5年(1872年)に駐英日本公使に就任し、ロンドンで英国外相第2代グランヴィル伯爵グランヴィル・ルーソン=ゴアと治外法権撤廃に向けた交渉を行う。明治6年(1873年)に参議・外務卿に就任。不平等条約の条約改正交渉に尽力し、アメリカとの間で関税権回復交渉に成功するも、他の列強の承認が条件とされたため条約を発効できなかった[12]。緊張が高まっていたロシアとの国境策定問題では榎本武揚を全権公使として派遣して樺太・千島交換条約を締結[12]。
また安政6年(1859年)以来、横浜、神戸、長崎に置かれていたイギリス、アメリカ、フランス各国の郵便局を、明治8年から13年にかけて次々と撤去させ、日本の郵便行政権を確保することで、植民地化の魔手を阻止した[12]。
また万国郵便連合や万国電信連合に日本を加盟させるなど、電信・郵政事業に尽力し、「電信の父」と呼ばれた[12]。
明治12年のユリシーズ・グラント前米国大統領の来日に際しては白金猿町にあった自邸に招待。
同年9月に文部卿に転任し翌年まで務めた。明治13年6月9日には白金猿町の自邸が明治天皇の行幸の栄誉を受けた。
明治14年には元老院議長、明治15年には駐米日本公使を務めた。。明治17年7月7日は維新および外交における勲功により華族の伯爵に列せられた。明治21年には枢密院副議長に就任した。
明治24年に肺を病んで病床に就くようになり、枢密院副議長を辞することになったが、その後も内閣総理大臣松方正義や外務大臣榎本武揚に条約改正に関する意見書を提出するなど条約改正交渉問題に関心を持ち続けた。明治26年(1893年)6月6日に死去し、正二位を追贈された。
宗則死後の寺島家
明治26年6月6日に寺島宗則が死去したのち、その長男誠一郎(明治3年9月9日生、昭和4年5月18日没)が伯爵位を継承。誠一郎はパリ政治学院留学から帰国した後、外務省に勤務し、外務大臣秘書官などを歴任。その後実業家に転身し台湾拓殖製茶会社取締役会長、三井信託会社監査役などを務めるとともに貴族院の伯爵議員にも当選して務めた。誠一郎夫人きやう(明治13年3月23日生、昭和6年1月15日没)は、三井新町家の当主三井高辰次女。
また宗則の長女(誠一郎の)である多恵は、官僚の長崎省吾と結婚した。
昭和4年5月18日に誠一郎が死去した後、長男の宗従(明治43年10月6日生、平成5年1月16日没)が伯爵位を継承。彼はプリンストン大学を卒業し、日葡協会副会長、日米協会常設委員、国際交通文化協会評議員などを務めた。宗従の代の昭和前期に寺島伯爵家の住居は東京市麹町区平河町にあった。宗従夫人の雅子(大正5年10月31日生)は細川護立侯爵の次女。
誠一郎の長女恭子は、安田善三郎の次男で画家の安田岩次郎の妻、次女姿子は三井室町家の当主三井高大の妻である。
平成前期の当主は、宗従の長男である宗久(昭和18年6月3日生)で、当時三井不動産勤務、住居は東京都渋谷区大山町にあった。
また宗従の長女幸子は徳川宗家の当主徳川恒孝の妻、次女文子は金子義明の妻である。
系図
- 実線は実子、点線(縦)は養子。系図は『寺島宗則』や『平成新修旧華族家系大成 下巻』に準拠。
系譜注
- ^ 河野家を相続
- ^ 松木宗貫夫人
- ^ 石沢宗之助夫人
- ^ 山田嘉兵衛夫人
- ^ 松木分家に嫁す
- ^ 河野家を相続
- ^ 松木家を相続
- ^ 長野祐照次男
- ^ 長崎省吾夫人
- ^ 安田岩次郎夫人
- ^ 三井高大夫人
- ^ 徳川恒孝夫人
- ^ 金子義明夫人
脚注
注釈
出典
参考文献