富岡 興永(とみおか おきなが、1928年〈昭和3年〉6月26日[1] - 2012年〈平成24年〉7月20日[2])は、日本の神職。富岡八幡宮宮司(第19代)。
来歴
富岡盛彦・好子[3][4]の次男として[5]東京都に生れる[1]。別名宰一郎か[3][注 1]。1950年、國學院大學の旧制哲学科を卒業。同年、電通に入社。
1959年、京都府宮津市にある籠神社の禰宜となる。時期は不明だが、同神社宮司の海部穀玄の長女と結婚した。
1960年、東京都に戻り富岡八幡宮の禰宜となる[1][6]。
1974年9月9日、父の富岡盛彦が死去。同年、父の後継として富岡八幡宮第19代宮司に就任[6]。
1994年10月に宮司退任。1995年3月、長男の富岡茂永が宮司となり、興永は名誉宮司となった。
2001年5月、茂永は素行の悪さを理由として宮司を解任される。同年、興永は宮司に再任した[7][8][9]。引退前後にブラジルから文化功労章を受章する[4]。また、韓国精神文化院からは登載者に薦められることもあった[4]。國學院大學評議員も務めた[4]。
2010年10月、体調を崩し再び退任。翌2011年1月25日付で名誉宮司となる[10][11]。興永は後継に長女の富岡長子を指名。富岡八幡宮の責任役員会が神社本庁に長子の宮司就任を具申したが、認められなかった[12]。
2012年7月20日、死去[2]。84歳没。墓所は多磨霊園[13]。
人物
訳書『回天の聖者』もある[14]。趣味は囲碁、釣り、園芸、古民具などだった[4]。
家族
訳書
- 『回天の聖者 大巡典経日本語訳 新訂版』李祥昊編著 富岡興永訳 丘書房、1994
脚注
注釈
- ^ 『昭和人名辞典II』第1巻に掲載の名前。宮司名では『人事興信録 第39版』にて本人及びその兄弟姉妹が同い年で掲載され、共通した学歴もあるため。
- ^ 『人事興信録 第39版』 では海部穀定(1900年6月12日 - 1985年9月27日)長女とある。いずれも元籠神社宮司[20]。
出典
関連項目
外部リンク