宋 津宇(ソン・ジヌ)
Song Jin-Woo
2009年の宋津宇 |
基本情報 |
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国籍 |
大韓民国 |
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出身地 |
忠清北道曽坪郡 (出生当時は槐山郡曽坪邑) |
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生年月日 |
(1966-02-16) 1966年2月16日(58歳) |
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身長 体重 |
180 cm 75 kg |
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選手情報 |
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投球・打席 |
左投左打 |
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ポジション |
投手 |
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プロ入り |
1988年 1次ドラフト(1989年入団) |
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初出場 |
1989年4月12日 |
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最終出場 |
2009年9月23日 |
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経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) |
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選手歴 |
|
監督・コーチ歴 |
|
国際大会 |
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代表チーム |
大韓民国 |
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五輪 |
2000年 |
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|
宋 津宇(ソン・ジヌ、韓国語:송진우、1966年2月16日 - )は、大韓民国忠清北道槐山郡曽坪邑(現在の曽坪郡)出身の元プロ野球選手(投手)。東国大学校卒業。2024年シーズン終了時点で、韓国プロ野球唯一の200勝投手である。
経歴
プロ入り前
1982年、高校2年生時に世光(セグァン)高校を黄金獅子旗全国高校野球大会で優勝に導き、翌83年には大統領杯で準優勝の経歴をもち、東国大学へ入学。大学でもチームを大統領杯に導いたが、一時期ひじの負傷で野球ができなかった。
1987年ビングレ・イーグルスの指名を受けたが、翌年のソウルオリンピック(公開競技)参加のため入団が1年見送られ、卒業後には実業団野球チームに進んだ。ソウル五輪代表でも活躍し、1989年にプロ野球のビングレ・イーグルスに入団した。
現役時代
新人だった1989年には、デビュー戦となった4月12日のロッテ戦を完封勝利で飾ると、この年9勝10敗9セーブと活躍し投手陣の柱となった。キャリア序盤は主に抑えとして使われた。
1990年には最優秀救援(27セーブポイント)、1992年には最多勝(19勝)、最優秀救援(25セーブポイント)のタイトルに輝き、ビングレの黄金時代を支えた。1991年には日韓プロ野球スーパーゲームにも出場し、甲子園球場で登板した際には、阪神タイガースのコーチから入団を勧誘されたほどだった。長良川球場で行われた第5戦では二番手で登板し、勝利投手になった。
1994年にチーム名がビングレ・イーグルスからハンファ・イーグルスに変更された後も、右の鄭珉哲(チョン・ミンチョル)と共にチームのエースとして君臨し続けた。
1997年、1998年はともに6勝止まりと不振だったが、1999年は15勝を記録しチームの韓国シリーズ優勝にも貢献した。
2000年5月18日のヘテ・タイガース戦でノーヒットノーランを記録し、この年シドニー五輪にも韓国代表として出場して銅メダルを獲得。
2000年に設立された韓国プロ野球選手会の初代会長にも選ばれ、2005年までその職を務め、このとき「会長様」のニックネームがついた。
2000年5月18日、ヘテ・タイガース戦で韓国プロ野球史上11人目のノーヒット・ノーランを記録した(2021年シーズン終了時点で、韓国プロ野球で韓国人選手による最後のノーヒット・ノーラン)。
30代中盤を過ぎてもその投球には衰えが見られず、2002年には18勝を記録して最多勝争い2位と活躍した。またこの年には宣銅烈の持つ韓国プロ野球個人通算勝利記録(146勝)を抜き、史上初の個人通算150勝も達成した。
2006年8月29日の起亜タイガース戦で、史上初の個人通算200勝を達成した。
2007年5月には韓国プロ野球史上最年長登板、最年長セーブ記録(いずれも41歳3ヶ月)、9月には史上最年長勝利記録(41歳7ヶ月)を更新。これらの記録は彼が記録を重ねる度に更新されている。
2008年シーズンは、韓国プロ野球史上初めて実働20年を記録する選手になった。また、2008シーズン開幕時に満42歳を超えて、2007年のフェリックス・ホセの41歳11ヶ月を抜き、史上最年長現役選手となった。2009年まで韓国プロ野球現役最年長であり、1980年代入団選手の中で最後の生き残りでもあった。
2008年は先発ローテーションに復帰して個人通算2000奪三振を記録して、規定投球回数を満たすなど奮闘したが成績は6勝止まりであった。
プロ入り21年目、満43歳になる2009年も現役を続行し、開幕間もない4月9日に個人通算3000投球回を達成。だが力の衰えは隠しようもなく、その後すぐに2軍へ降格。チームが早くから最下位に転落してベテラン優遇から若返りに方針転換。夏場まで再び1軍へ昇格することのないまま、ベテラン組への戦力外通告が相次ぐ中で8月16日に2009年シーズン限りで現役引退を表明し、21年のプロ生活に幕を閉じることになった[1]。そして背番号21は、ハンファでは3人目となる永久欠番となることが決まった。
9月23日、ハンファの本拠地・大田で引退試合を行い、現役最後の試合で先発登板したが、打者1人だけを相手にして降板し、その功績を称えて球場のバックスクリーン横に背番号21のモニュメントも建てられた。
現役引退後
2010年3月から日本プロ野球・読売ジャイアンツの2軍で、同じ韓国出身の金玄旭とともにコーチ研修を受けた。
2011年からは古巣・ハンファの2軍投手コーチに就任。2012年7月より1軍投手コーチに配置転換となった。
2014年10月でハンファを退団し、野球解説者として活動。
2015年、WBSCプレミア12の韓国代表コーチに就任し優勝に貢献した。2017 ワールド・ベースボール・クラシックでも韓国代表の投手コーチを務めた。
2017年10月、ハンファに投手コーチとして復帰することが発表され、2020年シーズン終了後に退任した。
2021年シーズンより京畿道独立野球連盟リーグ(朝鮮語版)に加盟するスコアボン・ハイエナ(朝鮮語版)の監督に就任した[2]。チームをリーグ優勝に導いたが、チーム解散のため同年限りで退任した[3]。
プレースタイル・人物
韓国プロ野球で個人通算最多勝利数以外にも、最多敗戦、投球回数、四死球など複数の通算個人記録の持ち主である。
2009年にはプロ野球界の名選手たちによる「星球会」を設立しその会長に就任。慈善事業にも積極的に携わる。
投球スタイルは韓国プロ野球随一の技巧派として知られていた。左のスリークォーター気味のフォームから投じられるストレートは時速135km前後だが、スライダー、カーブなどの変化球がさえ、卓越した投球術で打者に凡打の山を築かせる。そのため奪三振率は高くないが、非常に安定した投球内容を続け、先発した試合のテンポも速い。
息子の宋佑賢(朝鮮語版)もキウム・ヒーローズ所属のプロ野球選手だったが、飲酒運転により2021年8月にキウムを退団した[4]。
詳細情報
年度別投手成績
年
度 |
チ | ム |
試
合 |
勝
利 |
敗
戦 |
完
投 |
完
封 |
防 御 率 |
セ | ブ |
ホ | ル ド |
投 球 回 |
被 安 打 |
失
点 |
自 責 点 |
本 塁 打 |
与 四 死 球 |
奪 三 振 |
奪 三 振 率 |
W H I P
|
1989 |
ビングレ ハンファ
|
35 |
9 |
10 |
5 |
2 |
2.81 |
9 |
0 |
156.2 |
116 |
57 |
49 |
7 |
93 |
97 |
5.57 |
1.33
|
1990 |
50 |
11 |
7 |
0 |
0 |
1.82 |
27 |
0 |
128.1 |
80 |
29 |
26 |
2 |
54 |
103 |
7.22 |
1.04
|
1991 |
36 |
11 |
10 |
11 |
1 |
2.78 |
11 |
0 |
184.1 |
142 |
67 |
57 |
13 |
72 |
126 |
6.15 |
1.16
|
1992 |
48 |
19 |
8 |
4 |
1 |
3.25 |
17 |
0 |
191.1 |
157 |
79 |
69 |
17 |
101 |
130 |
6.12 |
1.35
|
1993 |
25 |
7 |
7 |
0 |
0 |
3.72 |
8 |
0 |
72.2 |
64 |
40 |
30 |
8 |
35 |
53 |
6.56 |
1.36
|
1994 |
33 |
9 |
10 |
3 |
0 |
3.92 |
10 |
0 |
133.0 |
119 |
90 |
76 |
10 |
64 |
90 |
6.09 |
1.38
|
1995 |
26 |
13 |
8 |
7 |
1 |
3.20 |
0 |
0 |
183.0 |
165 |
78 |
65 |
11 |
79 |
121 |
3.89 |
1.33
|
1996 |
31 |
15 |
9 |
5 |
0 |
3.25 |
0 |
0 |
213.0 |
185 |
80 |
77 |
18 |
94 |
160 |
6.76 |
1.31
|
1997 |
27 |
6 |
12 |
5 |
1 |
4.60 |
0 |
0 |
146.2 |
156 |
85 |
75 |
17 |
61 |
73 |
4.48 |
1.48
|
1998 |
24 |
6 |
10 |
1 |
0 |
4.79 |
0 |
0 |
114.1 |
125 |
66 |
61 |
19 |
46 |
72 |
5.65 |
1.50
|
1999 |
35 |
15 |
5 |
8 |
2 |
4.00 |
6 |
0 |
186.2 |
180 |
99 |
83 |
24 |
64 |
132 |
6.36 |
1.31
|
2000 |
28 |
13 |
2 |
2 |
1 |
3.40 |
4 |
1 |
135.0 |
121 |
60 |
51 |
19 |
61 |
105 |
7.00 |
1.35
|
2001 |
37 |
10 |
8 |
1 |
0 |
3.84 |
2 |
0 |
185.1 |
181 |
99 |
79 |
20 |
95 |
139 |
6.75 |
1.49
|
2002 |
31 |
18 |
7 |
8 |
1 |
2.99 |
0 |
0 |
220.0 |
199 |
82 |
73 |
16 |
65 |
165 |
6.75 |
1.20
|
2003 |
42 |
14 |
9 |
1 |
0 |
3.12 |
5 |
2 |
129.2 |
111 |
48 |
45 |
9 |
46 |
93 |
6.46 |
1.21
|
2004 |
28 |
11 |
8 |
1 |
0 |
3.61 |
1 |
0 |
172.0 |
162 |
73 |
69 |
19 |
51 |
100 |
5.23 |
1.24
|
2005 |
23 |
11 |
7 |
1 |
1 |
3.81 |
0 |
0 |
127.2 |
126 |
61 |
54 |
13 |
49 |
88 |
6.20 |
1.37
|
2006 |
26 |
8 |
8 |
0 |
0 |
3.60 |
0 |
0 |
147.1 |
147 |
64 |
59 |
10 |
56 |
94 |
5.74 |
1.38
|
2007 |
42 |
2 |
2 |
0 |
0 |
4.54 |
1 |
10 |
35.2 |
34 |
19 |
18 |
5 |
11 |
29 |
7.32 |
1.26
|
2008 |
31 |
6 |
8 |
1 |
0 |
4.48 |
0 |
2 |
132.2 |
141 |
72 |
66 |
13 |
68 |
73 |
4.95 |
1.58
|
2009 |
14 |
1 |
0 |
0 |
0 |
7.36 |
0 |
2 |
7.1 |
7 |
7 |
6 |
2 |
7 |
6 |
7.36 |
1.91
|
通算成績:21年
|
672 |
210 |
153 |
64 |
11 |
3.51 |
103 |
17 |
3003 |
2718 |
1341 |
1170 |
272 |
1272 |
2048 |
6.14 |
1.29
|
- 各年度の太字はリーグ最高、赤太字はKBOにおける歴代最高
背番号
- 1 (1989年)
- 21 (1990年 - 2009年、2018年 - 2020年)
- 130 (2010年)
- 84 (2011年 - 2014年)
タイトル
- 最多勝:1回 (1992年)
- 最優秀救援:2回 (1990年、1992年)
- 最高勝率:1回 (2000年)
表彰
脚注
関連項目
業績 |
---|
|
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1980年代 | |
---|
1990年代 | |
---|
2000年代 | |
---|
2010年代 | |
---|
2020年代 | |
---|
|
---|
1980年代 | |
---|
1990年代 | |
---|
2000年代 | |
---|
2010年代 | |
---|
2020年代 | |
---|
|
---|
1980年代 | |
---|
1990年代 | |
---|
2000年代 | |
---|
2010年代 | |
---|
2020年代 | |
---|
|