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天川 清三郎(あまかわ せいざぶろう、1919年12月27日 - 1944年10月26日[3])は京都府出身のプロ野球選手(投手、外野手)。
高校野球の強豪校として知られる平安中学(現・龍谷大学付属平安中学校・高等学校)の出身。在学中は甲子園に8回出場し、最後の出場となった1938年夏の大会では優勝投手になった。岐阜商との決勝戦では9回表に1点を先制されるも、9回裏に2点を取ってサヨナラ勝ちで優勝を決めるという、劇的な試合であった。この時に、サヨナラのホームを踏んだのが天川だった[4]。手を叩きながらホームインをする天川の写真も残っている[3]。
平安中学卒業後の1939年に南海軍に入団。デビュー2戦目のイーグルス戦で5安打完封勝利を飾る[5]など上々のスタートを切ったが、チームの貧打や自身の制球難により勝ち星は伸び悩んだ。また、当時の南海は兵役でレギュラー選手が次々に戦場に狩り出されて人材難だったため、投手だけでなく外野手として出場することもあった。それでも通算勝ち星こそ3勝だが、その内2勝が完封と甲子園優勝投手としての片鱗を見せた。
1940年シーズン終了後に応召。1944年10月26日、フィリピン・レイテ島カトモン山で頭部貫通銃創により、戦死した[3]。享年24。
東京ドーム敷地内にある、鎮魂の碑には彼の名が刻まれている。
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