株式会社大阪マルビル種類 |
株式会社 |
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市場情報 |
非上場 |
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本社所在地 |
日本 〒530-0001 大阪市北区梅田1丁目9番20号 |
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法人番号 |
7120001071823 |
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代表者 |
代表取締役 吉本 晴之 |
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資本金 |
8億1900万円 |
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売上高 |
6,100万円 (2024年3月期)[2] |
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営業利益 |
△4億3,200万円 (2024年3月期)[2] |
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経常利益 |
△4億6,800万円 (2024年3月期)[2] |
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純利益 |
△9億6,900万円 (2024年3月期)[2] |
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総資産 |
83億7,300万円 (2024年3月期)[2] |
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決算期 |
3月末日 |
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大阪マルビル(おおさかマルビル)は、かつて大阪府大阪市北区梅田一丁目9番20号に存在していた円筒形の高層ビル。地上30階・地下2階、高さ123.92m。1976年(昭和51年)3月に竣工した。大阪駅前のダイヤモンド地区中央に位置し、完成当時は周辺で唯一の高層ビルであった[4]。株式会社大阪マルビルは、大阪マルビル内のホテル・テナントを運営する企業。
建物の形状が円筒形であることが名称の由来(東京にある「丸ビル」は丸の内ビルディングの略称であり、両者に関連性はない)。そのユニークな形状、一部が復活した屋上部の電光掲示板、大阪の高層ビルのさきがけとしての風格等の理由から、梅田のランドマーク的ビルと位置づけられていた。
建て替えのため、2023年(令和5年)3月31日に閉館し、同年6月から解体されている[1]。
概要
もともと西梅田一帯の地主であった、9代目吉本五郎右衛門の分家の末裔に当たる吉本晴彦(大日本どケチ教教祖。吉本興業の創業家とは無関係)が少年期に相続して得た土地であり、戦後はバラックなどが不法占拠していたものの、立ち退きなどを解決させ、フジタ工業(当時)によって竣工された。なお、本家である吉本五郎右衛門は斜向かいにある「ヒルトン大阪」「ヒルトンプラザ大阪」などを所有している。
運営会社である「旧大阪マルビル」はフジタ工業の関係会社として設立されたが、1987年に吉本晴彦が代表を務める「吉本土地建物」によって株の過半数を買収され、吉本が名実ともオーナーとなる。一棟全てを大阪第一ホテルとして運営していたが、特徴的なビルの形状ゆえ維持費の負担が重く、地価の下落や収益低下もあって債務超過に陥った。2004年1月に国策会社産業再生機構による支援が決定し再生計画として、債権放棄と宴会場をテナントフロアに転換させて収益を上げさせる事が盛り込まれた。吉本土地建物が旧大阪マルビルを吸収合併して新生大阪マルビルに社名変更したのち、2004年11月にスポンサーに名乗りを上げた大和ハウス工業の子会社となった。再生計画の債権放棄に際して吉本晴彦が5億円の私財を提供した。なお吉本晴彦は顧問を務めていたが2017年5月30日に93歳で他界している。子息の晴之は継続して社長に就任している。
施設
ビル内には大阪マルビル直営の大阪第一ホテル(阪急阪神ホテルズに加盟)が主業となっているが、その他商業テナントも入居している。
かつては屋上にビルを一周する形で電光掲示板「大阪マルビルコンピュートサイン」が設置され、ニュース、広告、さらには伝言板などを回転表示していた(運営は関西テレビ放送の系列の関西コンピュートサインが運営)。大阪駅ホームなどからも見ることができ梅田の名物となっていたが、周辺に高層ビルが増えて見えにくくなった事や、電光掲示板設備の老朽化もあり、2003年(平成15年)9月30日を最後に撤去された。
2005年(平成17年)10月4日からは、「Daiwa House Group 大阪マルビル」のロゴ看板の一部に小さな電光表示板が組み込まれ、時刻・気象情報を伝えている。
歴史
交通
関連項目
脚注
外部リンク
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