これが大きく論じられるようになったのは、1981年の名古屋オリンピック招致運動期であるが、当時の新聞や週刊誌上に『大いなる田舎』や『偉大なる田舎』というワードが舞い躍った。あまりの知名度の無さに愛知県知事は国鉄に「Welcome to NAGOYA」と名古屋駅ビル外壁に書くよう依頼した[39]。名古屋市出身の体操メダリスト・中山彰規もメキシコ、ミュンヘンで「ナゴヤ」と言っても誰も知らなかった、と述懐している[40]。東京・大阪のような国立外国語大学設置の歴史もない市や愛知県の有力者たちに国際経験と語学力が足りなかったことも、五輪開催候補地選で敗れた一因として挙げられた[41]。1953年海外視察に赴く大隈鉄工所(愛知県)のエンジニアは「大きな田舎の名古屋では会話の勉強ができない」と嘆いて出国した[42]。名古屋市はただでさえ"単一土着都市"と揶揄されるところへもってきて[43]、「全国から集まってきた外来者によるぬくもりのある交流生活の場」、「種々の知識・芸能とが激しく混じりあう日常的な交流の場」であり、都市の魅力には不可欠な"都市の清華"「下町」空間を、都市機能集積が東京大阪程度にまで発達しないうちに、広い道路建設で潰してしまった[44]。結果、外国人・外来者との接触場所は消え失せ[43]、その外来者から「国際的感覚がない」との批判を受け[45]、これらもまた名古屋をして訪れる人々に「都市砂漠」さらには「大いなる田舎」の念をいだかしめたのである[46]。
^"都市欄 名古屋". 文藝春秋 昭和十年十月號. 東京: 文藝春秋社. 1 October 1935. p. 435. 「『君、名古屋は大きな田舎だよ』と事もなげにやつてのける心臓の強いのがゐる。百萬市民を持つ日本第三位の大都市といふ意識を追ひ越してしまつて『大きな田舎』とやつつけられて暴言だと片附けて了ふのは、然し早計のやうだ。」「名古屋人は地味で田舎臭いなどと言つたら、せゝら笑はれるだらう。名古屋人は東京人のやうに着道樂もしなければ、大阪人のやうに食道樂もしない。なけなしの金で着たり喰つたりが何だとせつせと貯める」
^"離屋読書説". 『文莫』第三号. 名古屋: 鈴木朖学会. 15 July 1978. p. 81. そこで那古野学とするのが妥当ではないかと愚考する。勿論名古屋学と表現するのも悪くはないが、しかし名古屋という文字面は、どうも近代の名古屋というまちが読者の想念に懸けられそうで、不都合である。さらに「学」を添えるということになると、なおさら現実的な理解が加えられて、具合が悪い。時には、「大いなる田舎」に「学」とは?と、真剣にからかう真面目な人さえある始末。「那古野学」と表記すれば、従ってそのようなおそれもなかろうかと思う
^"《白眼青眼》青い鳥追う名古屋". オール大衆. 東京: 株式会社経済通信社. 15 December 1980. p. 26. トヨタをはじめ、大企業もあるけれども、かつて"青年都市"といわれたバイタリティより"大いなる田舎"という形容の方がいまだに通りがよいという現実
^ abc相川俊英 (1 November 1998). "「愛知万博」懲りないメンメン 五輪がダメなら万博があるギャア。いまだバブルの夢追う地方行政と、そこに群がるハイエナたち―名古屋、この大いなる田舎―". 新潮45. 東京: 新潮社. pp. 92–102.
^"'東洋一'の先陣争いにわく名古屋". 週刊現代. 東京: 講談社. 23 October 1960. pp. 22–25. 名古屋で絶大の勢力を持つ中部日本新聞のある記者はこう語っている。「"ある読者の意見"なんてことで、氏名と年齢を紙上に発表しますね。すると『ありがとうございました』と菓子折をもった読者が社へ来るんですからねえ」名古屋人の地元びいきも"大いなる田舎"を世間にPRする一原因。
^ abc"マーケティング風土記(5) 名古屋". 『広告』夏季. No. 206. 東京: 博報堂. 1 August 1965. p. 65-70.
^ ab宮本貢 (12 June 1981). "タモリにこけにされた大いなる"田舎"名古屋大研究 それでも'88オリンピックへバク進中". 週刊朝日. 東京: 朝日新聞社. pp. 159–163.
^江坂彰 (8 December 1986). "トヨタ、ノリタケ、カゴメ、御幸毛織・・・「名古屋商法」に未来はあるか". 『プレジデント』. 東京: プレジデント社. pp. 214–223.
^"名古屋は果して「大いなる田舎」か《尾張一宮の巻》". 『通信タイムス』6月号. 東京: 通信タイムス社. 15 June 1958. pp. 53–54.
^"《今月の人》株式会社メルサ・取締役社長 鷲埜和夫氏". 『ショッピングセンター』12月号. 東京: 日本ショッピングセンター協会. 1 December 1980. pp. 12–13.
^"国家投資で地域開発という虫のいいねらい 五輪誘致に賭ける名古屋財界 道は険しく思惑はずれの懸念も". 『経済展望』53年9月15日号. 東京: 経済展望社. 15 September 1978. pp. 48–49.
^西野幾次 (1 December 1980). "可哀そうな名古屋五輪". 『実業の世界』1980年12月号. 東京: 実業之世界社. pp. 16–19. それは多分に名古屋の閉鎖的な土地柄による。よそものを排他するという気風が名古屋に強いことは否定できない。なんでも地元の事は地元でやろうというのは、自尊心からいって立派なことだが、せまい日本の中で名古屋モンロー主義を堅持している姿はいかにも泥臭い。名古屋といえば、われわれはどういうイメージを持っているか。東海銀行、名古屋城、名古屋鉄道、松坂屋、中部電力、中日新聞、日本碍子、トヨタ自動車、中日ドラゴンズといったきわめて地域性の強い企業群である。名古屋に攻め入ろうとする企業はいずれも苦戦している。名古屋支店につとめるサラリーマンは、妻子を引き連れて現地にどっしり根をおろさないとまともに相手にされないといわれる。その意味で名古屋という都市は、一番オリンピック開催にふさわしくないところである
^"名古屋人国記<1> 中京北海道クラブ「デッカイドーに魅せられた寄合所帯」". 『中部財界』10.1. 名古屋: 株式会社中部財界社. 1 October 1980. pp. 36–37. 「他県からの流入人口が過半数を超えた名古屋。"大いなる田舎"にも33の県人会組織ができている。郷土意識がきわめつき強い当地で"ヨソ者"の苦労も並々ならぬものがある」「名古屋に街並みが似ているといわれる札幌は人口130万人の大都会だ」「最後にクラブ員から名古屋人に対する感想を聞いてみた。北海道といっても地域により風土気質、方言は異なるのだが、これだけはピタリ一致した。『名古屋というのは、企業も人もヨソ者に対しては非常に厳しいです。閉鎖的でとけこみにくい。道産子はこれとまったく逆の気質なので、落差とショックは大きいです』」
^東海銀行常務調査部長水谷研治 作家深田祐介JR東海社長須田寛 (1 May 1991). "特別レポート●名古屋圏のグランドデザインを読む 強い経済力、勤勉な住民、豊かな自然・・・・・この街の周辺域は「可能性の大地」だ 名古屋が「魅力ある都市」に再生する条件". プレジデント 5月号. 東京: プレジデント社. pp. 242–249.
^愛知県教育委員会, ed. (1 September 1981). "《この人に聞く》メキシコ、ミュンヘン・・・・・、そして名古屋へ 中京大助教授 中山彰規さん". 教育愛知 9月号. 名古屋: 愛知県教育振興会. p. 40. 名古屋の国際的な知名度は、非常に低いですね。メキシコだとか、ミュンヘンだとかへ行って、いろんな質問を受けました、『どこに住んでいるのか』というように。普通尋ねられるのは、「東京か」「大阪か」。「違う、名古屋だ」と答えると、「ナゴヤ?どこなんだ?」。しょうがないから東京と大阪の中間ぐらいにね、「だいたいこの辺りが名古屋だ」と
^“《検証》名古屋五輪はなぜ敗れたか―外交なし―「招致」ならぬ「視察団」”. 朝日新聞東京版夕刊1版: p. 3. (1981年11月4日). "今にして思えば、名古屋代表団は動けなかったという方が的確かもしれない。その理由の一つは招致団メンバーの語学力不足と、国際経験の乏しさ。県議団、市議団の代表も加わっていたが、当初から「招致団」というより、名古屋五輪開催決定の瞬間を見物にやってきた「視察団」の色合いが濃かった。"
^"欧米工作機械のぞく旅から(1)". 『機械の研究 Science of Machine』8号. 東京: 養賢堂. 1953. p. 535. 大きな田舎と名のある通りに名古屋では会話の勉強もままならず、一向にしゃべるケイコもしないで出掛けてしまった
^御沢昌弘 (21 March 1959). "《詩学案内 詩都通信》名古屋市". 『詩学』3月号. 東京: 詩学社. p. 14. 「名古屋は前時代的な詩人の集まりが多く、排他的、自己閉塞的であり、事大主義的で、外部と内部の対立矛盾の統一などという現代詩人の主体性には全く欠け、名古屋の地方文化の持つじめついた微温地帯に無批判的に順応していくといつた状態である」「どうも名古屋の悪い面ばかり書いて来たようであるが、誰がつけたか知らないが<名古屋は大いなる田舎>であるとよくいつたものと思う
^"名古屋気風". 『工政』8月号. 大阪: 工政会. 20 July 1924. p. 55. 尾張に生まれたるものは智識がよく發達して居つて、小智惠は中々あるが、大きな智慧が尠ないやうである。數人紳士が集れば必ず儲け口から人の批評を爲すのみにて、政治にも趣味なく、文學美術にも亦趣味薄きやうに思はる
^名古屋市信用保証協会 高島英明 (29 June 1968). "中小企業の組織化を". 信用保証 №44. 全国信用保証協会連合会. p. 108. さて、名古屋という土地柄は、その昔より『大いなる田舎』と表現されてきた如く、外観巨大なる都市構造を備えながら、内面的には積極性に乏しく他の大都市に比べ非文化的と思われる面が存し、精神面においては保守的な考え方が優先していたようであり、産業一つをとりあげてみても、遅々とした発展ぶりであった
^"本社記者座談会 焦点を追って㉙ 尾張名古屋の底力". 『週刊朝日』. 東京: 朝日新聞社. 26 July 1959. pp. 22–27. C 芸というが、実はけいこごとが盛んなのであって、それが本当の芸というところまで、なかなかいかないんじゃないか A 踊りや小唄やお茶をやっても早く仕上げて、すぐ師匠になる。師匠になってすぐ金に代えちゃう。だから本当に芸が伸びていかない。 B すぐ師匠になってものになるということは弟子がすぐつくということだ。芸熱心な連中が非常に多いということだね D ただ芸熱心というと、相当裕福な土地は、名古屋だけではなく、どこでも盛んなんですよ。博多、金沢みなそうです。だから遊芸が盛んだと言うだけで、とくに名古屋を芸どころというのはおかしいような気もするんだが・・・
^"偉大な田舎 -名古屋素描-". 『財政』第21巻第1号. 東京: 大蔵財務協会. 1 January 1956. pp. 186–187. また名古屋は芸どころだといわれる。それは芸を見る目が肥えているという意味である。別の言葉でいうとあら探しがうまいということになる。果してこれが本当の芸術鑑賞の態度といえるであろうか。いかにも田舎くさい見方である。
^"都市欄 名古屋". 文藝春秋 昭和十年十月號. 東京: 文藝春秋社. 1 October 1935. p. 435. 然し、この藝どころといふ所、矢張り名古屋の體臭らしい。つまり回顧的で、尚古的で、骨董趣味的で。
^飯田経夫 (1981). “プロローグ”. In 日本経済新聞社. 『中部産業百年史 独立自尊の経営風土』. p. 13. "よく聞かれる『名古屋は文化不毛の地だ』という言い方は、あるいはこの点と関連するかもしれない。たしかに名古屋を中心とする中部の『文化』には、知性と感受性とがあまり躍動しないところがある。もう少しくだいていうと、何か新しいものをさがしもとめて、たえず目をキョロキョロさせるようなところが、あまり感じられない"
^関口苑生. “解説”. 名古屋ミステリー傑作選. 東京: 河出書房新社. p. 304. "『人生劇場』の尾崎士郎などを筆頭に(確かにこの小説は名古屋を出て、都へ行って名を成していく話だ)、金子光晴、谷川徹三、新美南吉、大衆文学の世界では佐々木味津三、牧野吉晴、城山三郎など数多くの文学者を生んでいるにもかかわらず、いずれもその後の生活の基盤は名古屋ではなくなっている。現在活躍しているミステリ系の作家でも辻真先、連城三紀彦、大沢在昌、山田正紀、東野圭吾、山村正夫、井沢元彦等々出身者はかなりいる。しかし、このことは逆に考えてみればそれだけ名古屋は作家生活の出発点となりうる何者かを、持ち得ているという事が出来るだろう。ただ単にそこで生活をしていないというだけなのである。ではあるが、これがまさしく名古屋の特徴なのだ。戦国時代の三英傑しかり、現代の作家しかり。人物は生み出すけれどもそこに独自の『文化』は築かない。東と西の橋渡しをするだけなのだ。だからこそ『中継地点文化圏』と呼ばれる所以でもあるのだろう"
^鮫ヶ寺廣光 (20 September 1936). "美人と城の都素描―吾等の町『名古屋』を語る―". 『改造』九月. 東京: 改造社. 此の名古屋人にして、この名古屋を舞臺にした、小説や戯曲のまだ発表されないことを、筆者は實に遺憾に思ふものである
^“名古屋カルチャー(6) 芸の世界 描かれる名作不在”. 中日新聞: p. 第2社会面. (2006年4月16日). "2005年芥川賞の「土の中の子供」は、愛知県東海市出身の中村文則の(28)の作だ。舞台設定は東京だが、中村によれば、マンションや川など、細かい場面は「僕の中に根を下ろしている」名古屋近郊の風景という。なのになぜ、そのまま舞台にしないのか。「都会の孤独を描くならやはり東京」と中村。「名古屋は都会なのに粘着性を感じるので」。小説にしろ歌にしろ映画にしろ、ナゴヤ=東海地方の核である名古屋周辺を描いた作品が少ないのは、なぜか。"
^名古屋ヤマハ・ジャズ・クラブ会長 伊藤邦治 (1 April 1980). "《全国ジャズチャンネル》内田修氏と名古屋ヤマハ・ジャズ・クラブ". 『スイングジャーナル』4月号. 東京: 株式会社スイングジャーナル社. p. 307. 地元の人ですら名古屋のことを"大いなる田舎"とか"非文化都市" "エコノミック・シティ"と称する方がある。私自身そう思うこともあり、確かに来日コンサート等も名古屋を通過してしまうことが多々ある。確かに大物と称するミュージシャンはまずほとんど地理的条件もあってほとんど来名している。しかしそのすべてが満席だったわけではないし、まして将来を期待される若手とか玄人好みのコンサートや日本のジャズ・プレイヤーのものは主催者がかわいそうになるくらいの入りの時もある。もし、誰かがこの名古屋を非文化都市と見下されて怒ったならば、その前に一体この名古屋のためにあなたは何をしたのかと問いたい。
^“ザ中部 21世紀をめざして 殻を打ち破れ③ 「名古屋飛ばし」考”. 日本経済新聞: p. 地方経済面 7. (1995年7月27日). "外国人アーチストのコンサートは名古屋を"通過"するケースが多い。外国人アーチスト招聘の最大手、ウドー音楽事務所(東京・港区)で今年の公演が決まったアーチストは三十七グループ。そのうち名古屋公演を行うのは十八グループだ。また、キョードー東京(同)でも、公演数の割合は東京圏を十とすれば関西圏が五、名古屋圏はニ、福岡三、札幌二だという。キョードー東京の関係者は「名古屋での公演の場合、評価の定まったアーチストの集客は計算できるが、それ以外のアーチストはメドが立たない。新しいものに飛びつかない県民性があるからだ。名古屋公演をするよりも、名古屋から行ける東京や関西の公演を増やした方が確実」と語る。公演の採算性を考えると、どうしても集客力のある都市を優先する。名古屋より人口の少ない福岡の公演が多いのは、集客力があるからだ。福岡は「新しい物好き」の県民性に加え、福岡ドームの建設以来、地元のイベント会社が積極的に誘致しているという"
^“産経抄”. 産経新聞: p. 1. (2017年4月3日). "歌謡曲には『ご当地ソング』と呼ばれるジャンルがある。『函館の女』『有楽町で逢いましょう』『大阪しぐれ』『長崎は今日も雨だった』・・・。地名が織り込まれた名曲を挙げていくときりがない▼もっとも、人口でも経済力でも日本屈指の都市でありながら、ご当地ソングに縁のない街がある。名古屋市である。実はスター歌手と一流の作詞、作曲家がコンビを組んで売り出した曲があった。残念ながらまったくヒットしなかった"
^“ご当地ソングも名古屋飛ばし なぜヒット曲ない!? 市制100周年も空振り”. 中日新聞 夕刊: p. 9 放送芸能面(左側). (1998年4月4日). "「おしゃれで洗練されたあか抜けた都市、歴史的文化が感じられる都市に人気が集まっていますね、名古屋は生活するにはいいイメージがあっても、行ってみたいとは思われていないようです」。その背景に「名古屋城とテレビ塔しかない」「盛り場で全国に知られたところがない」「川、坂、山がなく街が平面的で単調」など都市としての魅力に欠ける点や、「名古屋田舎論」「名古屋とばし」「名古屋いじめ」「大阪ほどに全国ネットで放送するテレビ局がなく、全国に知られていない」などをあげる。名古屋弁、はでな嫁入り、地場企業を最優先し、よそ者を排除する風潮などなどマイナスイメージが強く、名古屋人には相当きつい。"
^"緊急警告 東京・大阪以外は商売はダメになる!全国230万小売業者に恐怖時代がやってきた". 『週刊現代』. 東京: 講談社. 31 March 1966. pp. 16–17. 日本開発銀行の調査役・佐貫利夫氏がその発言者。言い分はこうだ。『東海地方の中核都市・名古屋は、京浜と阪神の二大拠点の中間にあって自然条件にめぐまれ、将来に期待がもたれているが、いろいろ検討してみると、東海地方諸都市としての発展潜在力は意外に小さい。だから人口がふえ、工業集積は豊かになっても、肝心の消費は東京や大阪のほうへ流れてしまうのではないか。それはちょうど"女性のヒップ"のようなものだ。人口を吸引する中枢神経のない偉大な都市で、中枢神経は東京大阪の両方に奪われ、空中分解の危険をはらんでいる』
^"緊急警告 東京・大阪以外は商売はダメになる!全国230万小売業者に恐怖時代がやってきた". 『週刊現代』. 東京: 講談社. 31 March 1966. pp. 16–17. ところが、これは佐貫氏一人の見方ではない。実は都市問題の権威・磯村英一教授(東京都立大)もこれに同調するのだ。『いや、笑いごとじゃありませんよ。都市としての中枢機能は東京と大阪に分極化して、名古屋はだんだん工場地帯化し、銀行なんかもことによるとへるかもしれませんな。工場に関係する人たちだけがふえるのだから、人口はふえるがバラエティは乏しくなる。現に、熱海が名古屋市民の"奥座敷"になったり、女の子が日曜日には名古屋からグループで東京へ買い物にきている事実は、地元でものを買わなくなる、金を使わなくなる傾向を示唆しているのじゃないでしょうか』
^佐藤節夫 (1968). 『実力社員の経済テスト あなたの最新知識は万全か』. 徳間書店. p. 157. "これと対照的なのは名古屋である。名古屋は、『大いなる田舎』といわれながらも、従来は大都市としての体質を一応そなえていた。しかし、新幹線の開通以来、政治・経済の中枢的な機能が、すっかり東京に吸収され、商工業の現場的な部分だけが肥大し始めた。名古屋ヒップ論なる比喩があるが、まったく名古屋は、頭がカラッポでお尻だけ発達した中年女のような姿になってしまった"
^"地域経済展望 転機にたつ"青年都市"名古屋の苦悩". 『産業と経済』. 株式会社産業と経済. 1 May 1972. pp. 58–61. そして、また、名古屋が東京大阪に比べ格段に弱い点は、中枢管理機能の集積。地元の名門松坂屋のように、本社機能の東京移転という形で中枢管理機能が流出していく傾向すらあり、頭脳なき工業地帯化のおそれもある
^“真ん中の宿命 谷間飛ばされる不安いつも”. 中日新聞 市内版 朝刊: p. 32. (2006年2月20日). "つばめのころ東京に取り込まれる感じはなかったが、新幹線が通った途端、企業はナゴヤの支店を東京へ引き揚げたり、格下げにしたりしてね"
^"特別インタビュー●名古屋商工会議所会頭 加藤隆一 活性化の切り札は「地方庁」と「東京事務所税」の創設だ". 『プレジデント』5月号. 東京: プレジデント社. 1 May 1991. p. 246. しかし現状では、研究機関は東京に置こうというムードが非常に強い。たとえば、超電導工学研究所を名古屋市に誘致したときもそうです。とにかく、その道の権威が、東京につくれ、つくれといってきかない。名古屋はいやだというんですね。それで結局、名古屋には分室だけができることになったんです。研究者は東京がすきなんですよ(笑) 研究するには東京のほうが便利がいいですからね。マスコミも報道してくれるから知名度が上がる。こちらでいくらいい研究をしても、東京の新聞には載らない
^金子昭三 (1 May 1991). "特別レポート●名古屋圏のグランドデザインを読む 工場県外脱出を決めたトヨタ。「産業と技術の首都」は頭脳と情報を付加できるか 巨大な「モノづくり圏」に迫り来る転機". 『プレジデント』5月号. 東京: プレジデント社. pp. 250–255.
^"地域経済展望 転機にたつ"青年都市"名古屋の苦悩". 『産業と経済』. 株式会社産業と経済. 1 May 1972. pp. 58–61. 『青年都市』名古屋のイメージに対して疑問視する声も出ている。『新幹線、高速道路など交通ネットワークの整備が、かえって名古屋を東西の一日圏にしてしまい、東西に足を引っ張られている』とか、一言で『名古屋は通過都市』ときめつける声が代表的なそれだ。距離の時間的短縮化による名古屋の地盤沈下は、認めざるを得ないものかもしれない。『名古屋大都市圏は虚像である。名古屋のライバルは東京、大阪ではなく札幌、福岡だ』という名古屋大都市圏虚像説すらある
^人事院任用局参事官 栗田久喜 (5 December 1992). "「偉大なる田舎」雑感". 『月刊官界』12. 東京: 行政研究所. pp. 290–291. しかし、従来は東京と大阪との狭間にあって、ともすれば両者よりも軽く見られがちであった。いわば新幹線の通過都市的存在であった訳であり、とうてい政治経済の中心にはなり得なかった
^日本テレビ・よみうりテレビ・名古屋テレビ, ed (1972-7-1). “第4節 東京・大阪・名古屋のイメージ”. 『都市時代の視聴者像』. 岩崎放送出版社. p. 165. "とくに関東と関西を代表する東京と大阪の対比は、地理的歴史的な視点からの議論が積み重ねられてきた。この場合、名古屋の存在はあまり取りあげられないのが普通である。東・阪ほどに話題の材料が豊富でないこと、都市としての性格づけがあまり明確でなく、焦点が定まらないなどの理由によるものだろう"
^関口苑生. “解説”. 名古屋ミステリー傑作選. 東京: 河出書房新社. p. 303. "これだけ歴史のあるそして大きな都市であるのに、なぜそんなに印象が薄いのか。むろんいくつか理由は考えられる。そのひとつは、冒頭にもちょっとふれたように名古屋が『素通り文化圏』『中継文化圏』と呼ばれていることに象徴されているように思う"
^"'88五輪めざす偉大なる田舎・ナゴヤの国際感覚". 『週刊アサヒ芸能』. 徳間書店. 21 February 1980. p. 27. それは名古屋の地理的条件と歴史的環境をみれば、わかります。名古屋は東京~大阪の中間にあり、東西の両拠点を結ぶ中継点、もしくは通過点としての位置に甘んじてきました。だから、東京、大阪のものはなんでもありますが、名古屋独自のものというのは一つもありません