塩化ホスホリル (えんかホスホリル、phosphoryl chloride)は三塩化リン に酸素原子 を付加した化合物 である。オキシ塩化リン (phosphorus oxychloride)、リン酸トリクロリド (phosphoric trichloride) とも呼ばれる。分子式は POCl3 である。湿気を含んだ空気で加水分解されてリン酸 と塩化水素 の煙を生じる。三塩化リンと酸素、あるいは五塩化リン から工業的に大規模に生産されており、リン酸トリクレジル のようなリン酸エステルを作るのに用いられる。毒物及び劇物取締法により毒物に指定されている[ 1]
構造
リン酸エステルなどの類縁体と同様、四面体構造をとる。3つの P-Cl 結合と1つの非常に強い P=O 結合を持ち、P=O 結合の結合解離エネルギー は 533.5 kJ/mol と見積もられている。結合強度と電気陰性度に基づき、ショーメーカー・スチーブンソン則 (Schomaker-Stevenson rule) は POF3 よりも二重結合の寄与が非常に大きいことを示している。この P=O 結合はケトン などのカルボニル基 におけるπ結合 とは異なる。P-O 間の相互作用の適切な記述法については長らく論争が続いている。古い教科書では、リン原子上のd軌道 の関与を用いた記述、すなわちいくつかのd軌道が酸素原子に向かって広がり、酸素のp軌道 と重なっている、という記述がよく見られる。より新しい教科書では、
P-Cl σ* 軌道に O 原子の孤立電子対 が供与されて P-O π 結合が生じるという記述が好んで用いられ、d軌道に関しては考慮されない。
化学的性質
水やアルコールと反応してリン酸やリン酸エステルを与える。
O
=
PCl
3
+
3
H
2
O
⟶ ⟶ -->
O
=
P
(
OH
)
3
+
3
HCl
{\displaystyle {\ce {O=PCl3\ + 3H2O -> O=P(OH)3\ + 3HCl}}}
アルコールと反応させる場合、生成物であるアルキルリン酸エステルは HCl に対して不安定なので、ピリジン やアミン など HCl と反応してこれを取り除ける試薬を共存させる。塩化ホスホリルを塩化マグネシウム などのルイス酸 存在下に過剰のフェノール と加熱すると、トリアリールリン酸エステルが生成する。
O
=
PCl
3
+
3
C
6
H
5
OH
⟶ ⟶ -->
O
=
P
(
OC
6
H
5
)
3
+
3
HCl
{\displaystyle {\ce {O=PCl3\ + 3 C6H5OH -> O=P(OC6H5)3\ + 3 HCl}}}
ルイス塩基としても働き、四塩化チタンなど、様々なルイス酸と反応して付加物を形成する。
Cl
3
P
+
− − -->
O
− − -->
+
TiCl
4
⟶ ⟶ -->
Cl
3
P
+
− − -->
O
− − -->
− − -->
TiCl
4
{\displaystyle {\ce {Cl3P^+-O^-\ + TiCl4 -> Cl3P^+-O-^-TiCl4}}}
塩化アルミニウム との付加物は非常に安定なので、フリーデル・クラフツ反応 を行った後の混合物から完全に塩化アルミニウムを取り除くことができる。また、塩化アルミニウムの存在下、臭化水素 と反応して POBr3 を与える。
合成法
三塩化リンと酸素の20–50 ℃における反応によって得られる。空気を用いると反応効率が悪い。
PCl
3
+
O
2
⟶ ⟶ -->
POCl
3
{\displaystyle {\ce {PCl3\ + O2 -> POCl3}}}
もう1つは五塩化リンと五酸化二リン の反応によるものである。これらの化合物は共に固体なので混合しにくい。そこで、液体である三塩化リンを原料兼溶媒 として使う。五酸化二リンとの混合物を塩素化し、五塩化リンを系中で発生させ、反応を行う。三塩化リンが消費されると、生成物である塩化ホスホリルが溶媒となる。
6
PCl
3
+
6
Cl
2
⟶ ⟶ -->
6
PCl
5
{\displaystyle {\ce {6PCl3\ + 6Cl2 -> 6PCl5}}}
6
PCl
5
+
P
4
O
10
⟶ ⟶ -->
10
POCl
3
{\displaystyle {\ce {6PCl5\ + P4O10 -> 10POCl3}}}
五塩化リンを水と反応させても塩化ホスホリルが生成するが、この反応は上記のものより制御するのが難しい。
用途
最も重要な用途はリン酸トリフェニル やリン酸トリクレジルといったリン酸トリアリールエステルの製造である。これらのエステル類は難燃剤 やポリ塩化ビニル の可塑剤 として長年用いられている。一方、リン酸トリブチル (TBP)などのアルキルエステルは核燃料再処理 において液-液抽出 溶媒として使われる。
実験室においては脱水試薬として広く用いられる。例としてアミド のニトリル への変換が挙げられる。ビシュラー・ナピエラルスキー反応 (Bischler-Napieralski reaction) ではアミド前駆体の閉環によってジヒドロイソキノリン 誘導体を合成する。
上記の反応は塩化イミドイル中間体を経由すると考えられている。十分に安定な場合は、塩化イミドイルが最終生成物となる。例えば、ピリドン やピリミドン はピリジンやピリミジン の塩化物誘導体へと変換でき、これらは製薬工業における重要な中間体である。同様にして、バルビツール酸 は塩化ホスホリルと140 ℃で反応させることにより、2,4,6-トリクロロピリミジンに変換される。
また、これと関連する反応として、塩化ホスホリルを用いて活性化された芳香環 をアシル化し、芳香族アルデヒド や芳香族ケトンを得る反応(ビルスマイヤー・ハック反応 )がある。この反応には DMF や N -フェニル-N -メチルホルムアミドといったホルムアミド誘導体が最もよく使われる。これらはイミニウム塩を生成したあと、簡単に加水分解されてアルデヒドを与える。例えばアントラセン との反応では 9-アントラアルデヒドを与える。
ビルスマイヤー・ハック反応
脚注
参考文献
Earnshaw, A.; Greenwood, N. Chemistry of the Elements ; Butterworth-Heinemann: Oxford, 1997; 2nd ed. ISBN 0-7506-3365-4
Handbook of Chemistry and Physics ; CRC Press: Ann Arbor, Michigan, 1990; 71st ed.
March, J. Advanced Organic Chemistry ; Wiley: New York, 1992; 4th ed., p. 723. ISBN 0-471-58148-8
The Merck Index ; Merck & Co: Rahway, New Jersey, 1960; 7th ed.
Toy, A. D. F. The Chemistry of Phosphorus ; Pergamon Press: Oxford, UK, 1973.
Wade, L. G., Jr. Organic Chemistry ; Prentice Hall: Upper Saddle River, New Jersey, 2005; 6th ed., p. 477. ISBN 0-13-169957-1
Walker, B. J. Organophosphorus Chemistry ; Penguin: Harmondsworth, UK, 1972; pp. 101-116.
Elderfield, R. C. Heterocyclic Compounds ; Wiley: New York, 1957; Vol. 6, pp. 265-266. トリクロロピリミジンの合成については: Gabriel, S.; Colman J. "Zur Darstellung des 2.4.6-Trichlor-pyrimidins." Chem. Ber. 1904 , 37 , 3657-3658.
9-Anthraldehyde; 2-Ethoxy-1-naphthaldehyde. Organic Syntheses , Coll. Vol. 3, p. 98 (1955); Vol. 20, p. 11 (1940). アントラセンのホルミル化(英語)