塚田 茂(つかだ しげる、1926年(大正15年)3月9日[1] - 2008年(平成20年)5月13日)は、日本の演出家、放送作家、構成作家、作詞家、タレント。東京府東京市(現・東京都特別区)豊島区池袋出身[1][注釈 1]。血液型はB型。
東京府立商工学校(現・東京都立北豊島工業高等学校)卒[1][2]。
太平洋戦争中の1945年2月に徴兵検査で第一種乙種合格、それを受けて翌3月に召集令状が来た。しかし、工科系学校に在籍する特権で2年の入営延期を認められ、日本無線に動員されるという形で勤務[1]。その間に戦争は終結した。塚田は工科系の学生になったのは、特権が狙いだったとも話している[1]。終戦後はしばらくの間、親類の時計店の居候となった[1]。
1946年、新聞の求人広告を見て、東宝に応募。2000人中3人の合格者に入り、帝国劇場に所属[1]。最初の仕事は音響効果係だった[1]。1947年に有楽座所属となり照明係[1]、1949年に日本劇場(日劇)に転じるも、人員整理により解雇となる[1]。その後は、有楽座に覚えたダンスを活かしてダンスの助教師、化粧品のセールスマンなどを務める[1]。
1950年、日劇の地方興行専門の仕事を引き受け、照明係や演出などを担う[1]。1953年に福島県平市(現・いわき市)で行われた雪村いづみショーにて、急遽ショーの1時間延長を要請され、コントを書いて踊り子らと一緒に自ら出演。これが初めて台本を書いた機会になったという[1]。同年に日劇に復帰[1]、演劇部で舞台演出家として活躍する。
1955年、『爆笑テイチク歌祭り』で演出家として一本立ち[1]。同年『ガラクタ狂想曲』(NHK)で放送作家としてテレビ界に進出、1956年『お昼の演芸』(日本テレビ)で初のレギュラー構成演出[1]。以後、『夜のヒットスタジオ』(フジテレビ)、『シャボン玉ホリデー』(日本テレビ)、『8時だョ!全員集合』(TBS)、『お笑いオンステージ』(NHK)など、日本のテレビ番組史上に残る数多くの名番組の立ち上げに参加した。『NHK紅白歌合戦』にはテレビ中継が初めて行われた第4回(1953年)に、塚田は当時日劇の舞台監督をしていた関係上、日劇側のスタッフとして参加[3]。また第16回(1965年) から第37回(1986年)までは[注釈 2]、番組の主要ブレーンとしてかかわった。
このほか、放送作家のみならずタレントとしても活動した。
1990年代初頭に、テレビ番組の制作の一線からは引退。横浜・八景島シーパラダイスなど各地のレジャー施設、行事におけるイベントの企画・構成に活躍の場を移した。
2008年5月13日、脳梗塞のため、東京都内の病院で死去した[4]。82歳没。
夜のヒットスタジオの構成を依頼された際、初代プロデューサー・伊藤昭から、「(視聴率を)10%採ればいい。これでいい正月が過ごせるじゃない。頼むよ」と半ば強引なオファーを受け、泣く泣く引き受けざるをえなくなってしまったという。1970年代前半の夜ヒットには「元祖 出たがり構成作家」を標榜して「歌謡ドラマ」などのコーナーに、コメディリリーフ扱いで頻繁に顔を出した。「歌謡ドラマ」とは、歌手が出演する寸劇コーナー[5]。「有名歌手には新人タレントが抱き合わせでつけられる。だが、新人歌手の歌だけでは視聴者をひきつけられない。そこで人気歌手をチラチラ見せる寸劇を入れることにした。しかし切腹シーンとか頭蓋骨を割られる役とかを有名歌手にやらせるわけにいかず、自分が犠牲になってアホウな役を買って出たところが、これがうけた」と塚田は明かす[5]。 また「コンピュータの恋人選び」というコーナーを発案[5]。小川知子が2日前にテストカーの乗って事故死したカーレーサーの福澤幸雄のテープを見て泣いたときには、視聴率は一挙に42.2%に跳ね上がった[5]。
男性司会者が休暇を取って番組に穴を開けるときには代打として、芳村真理とのペアで司会を組んだことが何度かあった。司会で盟友でもある前田武彦からは、番組内で「ドンドンクジラ」というニックネームが付けられた[6]。本人は、「太っていてクジラそっくり。しかし、仕事はどんどんバリバリやる、といったところから命名されたらしいですが、当時の私の持つ雰囲気を一発で表現した、前武さん最高の傑作だと思っております」と説明しているが、太めなのにクジラの目のように細く可愛らしい目をしているから「クジラ」と名付けられ、「どんどん」は、番組において「どんどん踊り」という奇妙な踊りをさまざまな格好をして踊っていたからであるというのが、正解らしい[6]。この頃には、ポリドールから歌手として、コミックソング『涙になりました』をリリースしている。
1970年代初頭に企画制作集団・スタッフ東京を作り、大学の新卒を集め、基本の基本から構成作家の養成を行い、プロパーの作家として世に出そうとした[5]。その第一期生として入ったのが、昭和45年からの新人たちであり、その中から高田文夫、玉井貴代志、松岡孝などの放送作家が生まれてきた[5][注釈 3]。
「スタッフ東京」の設立経緯につき、塚田は著書の中で「当時、放送作家の絶対数不足を感じていたからだ」と語っている。当時のテレビ業界では、テレビ局の制作ブレーンが絶対的な存在であり、放送作家はそのブレーンが本来すべき「構成」の仕事を「代行」しているにすぎないという実態があり、その関係から1回の仕事で得るギャランティーもきわめて少額(特にバラエティー番組に関してはドラマ番組の演出で受けるギャラを10として、最大でもその7割程度しかギャラが支払われなかったという)であったことから、「放送作家」を「代行業」ではなく、一端のれっきとした「職業」としたいという想いを塚田が兼々抱いていたことが、同社の設立に繋がったという。
塚田は自身が担当する番組の企画会議の席上に必ずといっていい程、高田や玉井ら有望な弟子を帯同させ、そこで自身が述べたことをメモに書き留め、それを元に自身で台本を作り上げるように指示するなど、弟子たちを厳しく指導、教育した。その甲斐もあって、1970年代の終盤に入った頃には弟子たちは塚田からの全幅の信頼を寄せられる存在となり、塚田は自身の代わりに現場の指揮に当たらせるようになった。これらの経験を糧として、1980年代に入ってからは高田は『オレたちひょうきん族』など、玉井は『なるほど!ザ・ワールド』などの構成で、30代前半にして、人気放送作家の仲間入りを果たすこととなった。
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