園田 喜則(そのだ よしのり、1948年7月29日 - 2006年9月6日[注 1])は、大阪府出身(出生地は三重県伊勢市)[注 2]のプロ野球選手・コーチ。選手時代のポジションは内野手。右投右打。
来歴・人物
北陽高校では1966年、3年生の時に遊撃手、控え投手として夏の甲子園府予選決勝に進出。エース奥田敏輝を擁する桜塚高と対戦し、2回から橋本和行をリリーフし好投、4-0で勝利を飾る。夏の甲子園では1回戦で福島商を降すが、2回戦では桐生高に1回裏9点を奪われ、その後は前野和博(芝工大-東芝)らに抑えられ敗退[3]。この2試合ともリリーフで登板している。2年下のチームメートに中堅手の長崎慶一がいた。
1966年第1次ドラフト会議で東京オリオンズ(1969年よりロッテ・オリオンズ)[注 3]から1位指名を受け入団・プロ入り。初年度の1967年から一軍に上がり、遊撃手として4試合に先発出場を果たす。同年はジュニアオールスター(二軍のオールスターゲーム)にも出場したが、その後は右目に打球が当たり、視力が低下して活躍の場には恵まれず、1971年に引退した。1973年まで二軍でマネージャーを兼務するコーチとして球団に残った。[注 4]
2006年9月、病により58歳で急死した。
詳細情報
年度別打撃成績
- 東京(東京オリオンズ)は、1969年にロッテ(ロッテオリオンズ)に球団名を変更
背番号
※参考…[4]
- 42 (1967年 - 1968年)
- 6 (1969年)
- 44 (1970年 - 1971年)
- 62 (1972年)
- 90 (1973年)
脚注
注釈
- ^ 参考:
- ^ 参考(出身地):
- ^ 没後の1992年より千葉ロッテマリーンズに改称。
- ^ 参考:
- 次の資料では、1972年に内野手兼コーチ、1973年に二軍コーチとして在籍の旨が明記[4]。
- 次の資料では、1972年まで選手として在籍の旨が明記(コーチ在任の旨は明記せず)[5]。
- 次の資料では、1971年まで選手として在籍の旨が明記[2]。
- 次の資料では、1971年まで内野手として、1972年にコーチとして在籍の旨が明記[6]。
出典
参考資料
関連項目
外部リンク