千藤 和久基本情報 |
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国籍 |
日本 |
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出身地 |
岐阜県 |
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生年月日 |
1947年??月??日 |
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没年月日 |
2021年10月14日(2021-10-14)(73–74歳没) |
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身長 体重 |
180 cm 68 kg |
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選手情報 |
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投球・打席 |
左投左打 |
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ポジション |
投手 |
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経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) |
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選手歴 |
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監督歴 |
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千藤 和久(せんどう かずひさ、1947年 - 2021年10月14日)は、日本の元アマチュア野球選手(投手)。
経歴
岐阜県の中京高等学校ではエースとして活躍。1964年秋季中部大会県予選準々決勝に進むが、エース淵上澄雄を擁する岐阜短大付高に惜敗。翌1965年夏は県予選を勝ち抜き三岐大会に進出。しかし準決勝で海星高に敗退した。高校同期に伊藤正信がいる。
高校卒業後は北海道拓殖銀行に入社した。1968年のドラフト会議でサンケイアトムズから4位指名を受けたが、入団を拒否しチームに残留[1]。1974年の都市対抗には大昭和製紙北海道に補強され、柳俊之(電電北海道から補強)との二本柱で勝ち進む。決勝では柳との継投で新日本製鐵八幡を完封、延長10回に相手エース萩野友康の暴投もあって4点を奪い初優勝を飾った[2]。同大会の優秀選手に選出される。11月の社会人野球選抜キューバ遠征にも参加した。
1975年の社会人野球日本選手権にチーム初出場。準決勝に進み日本生命に敗退するが、同僚の山口敏男投手とともに優秀選手賞を獲得[3]。翌1976年の都市対抗野球は準々決勝で住友金属を完封。決勝では日本鋼管の梶間健一と互いに無失点で投げ合うが、9回にリリーフの有沢賢持(日産サニー札幌から補強)が決勝点を奪われ敗退[2]。準優勝にとどまるが、同大会の久慈賞を獲得。同年の社会人野球日本選手権も2勝を挙げ準決勝に進出。日本鉱業佐賀関の藤沢公也に完封を喫するが、2年連続で大会優秀選手に選出された[4]。同年の社会人ベストナイン(投手)に選出され、アマチュア野球世界選手権日本代表となる。1979年現役引退。
引退後は、北海道拓殖銀行の監督を務めた。2021年10月14日、埼玉県三郷市にて死去。74歳没。[要出典]
脚注
関連項目