北条 氏繁(ほうじょう うじしげ)/北条 康成(ほうじょう やすしげ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。後北条氏の家臣。福島正成の子とされる北条綱成の嫡男。玉縄城主、後に岩槻城城代、鎌倉代官なども務めた。
生涯
天文5年(1536年)、後北条氏の家臣・北条綱成の嫡男として誕生した。母方のおじにあたる北条氏康に仕え、偏諱を受けて康成と名乗る(生涯の大半はこの諱を名乗っている)。また、のちに氏康の娘で康成の従姉妹にあたる七曲殿を妻としている。
父と同じく武勇に優れており、天文23年(1554年)の加島の戦いでは松田憲秀、笠原康勝(信為の子で、憲秀の子・政尭の養父)とともに先鋒を務め、功を立てた。駿河国の今川家を甲斐国の武田家の侵攻から救援すべく氏康が出兵した際にも、陣頭に立って活躍した。永禄4年(1561年)に上杉謙信や永禄12年(1569年)に武田信玄が侵攻してきたときは、玉縄城に籠城して守り抜いている。里見氏との第二次国府台合戦では父綱成や松田憲秀と共に奇襲をかけて里見軍を打ち破った。また、白河結城家や蘆名家との外交交渉にも携わっている。このように軍事・外交に長けた康成は氏康からの信任も厚く、下総国方面の軍権を任された。
元亀2年(1571年)頃に、父・綱成が隠居したのを受け氏繁に改名し家督を継いだが、天正6年(1578年)、父に先立って対佐竹氏の最前線、下総飯沼城中にて病死した。跡を嫡男の氏舜が継いだ。
氏繁は自分の印判に『易経』からとった「顚趾利出否」という文を刻んだ。政治秩序が顚倒しており、旧弊を一掃するのに好都合だという時勢観を表したものである[2]。『北条記』の「北条常陸守氏重事」によれば、鷹を飼育することにかけても名人だったといい、武人画家として、『鷹図』(個人蔵)などの作品を残している。また、氏繁が息子たちに軍陣での作法や行動を教えるために書き記したと思われる『出陣次第』(国立歴史民俗博物館蔵)という冊子は、当時の武家故実を現在に伝える貴重な書物となっている。
脚注
- ^ 勝股鎮夫「天下と国家 クニとイエと支配の論理」、『週刊朝日百科 日本の歴史』23(中世から近世へ4・戦国大名)、1986年、28頁。
参考資料