加藤 泰済(かとう やすずみ)は、江戸時代後期にかけての大名。別名は泰重、泰定。伊予国大洲藩10代藩主。官位は従五位下・遠江守。
略歴
9代藩主・加藤泰候の長男として誕生。幼名は作内。天明元年(1781年)生まれとの説もある。
天明7年(1787年)、父の死去により跡を継ぐ。幕命による公役の負担、藩で相次ぐ火災や大洪水による天災などにより、藩財政は大いに悪化した。このため倹約令を出し、家臣の知行削減を厳しく行なった。文政元年(1818年)頃には効果が現れて、藩財政は安定したといわれている。また、文武を奨励し、商礼条目制定による商業統制なども行なった。
文政9年(1826年)9月20日に死去し、跡を長男の泰幹が継いだ。享年42。法号は文竜院殿。墓所は東京都台東区松が谷の海禅寺。
系譜
- 父:加藤泰候(1760-1787)
- 母:知貞院
- 正室:保寿院 - 松平定信の娘
- 側室:妙相院
- 生母不明の子女
加藤氏 大洲藩10代藩主 (1787年 - 1826年) |
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脇坂家 | |
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加藤家 | |
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