分部 光命(わけべ みつなが[1][2])は、江戸時代中期の大名。近江国大溝藩6代藩主。分部家7代。官位は従五位下・和泉守、若狭守。
生涯
正徳4年(1714年)1月8日[2]、5代藩主・分部光忠の長男として誕生[1][2]。母は側室の谷氏で[1]、嫡母(父の正室)である田村氏(田村誠顕の娘)に養われた[1]。
享保14年(1729年)2月28日、16歳で徳川吉宗に御目見[1]。享保16年(1731年)、父の死を受けて、5月6日に遺領相続が認められる[1]。同年12月23日、従五位下和泉守に叙任[1]。享保18年(1733年)4月15日、初めて領国入りするための暇を与えられる[1]。延享元年(1743年)5月12日、若狭守に遷る[1]。
延享4年(1747年)には城下で大火が発生し、6町170軒が焼失する大きな被害を出した[3][4](「大溝の大火」と呼ばれる[4])。寛延2年(1749年)にも56軒を焼く大火が発生している[4]。
宝暦4年(1754年)9月7日、長男・光庸に家督を譲って隠居[1]。宝暦10年(1760年)には病気療養を理由に摂津国有馬温泉にて保養した。[要出典]
明和6年(1769年)に剃髪して[要出典]風斎と号する。天明3年(1783年)11月17日[2][注釈 2]、大溝において死去[1]。享年70[1]。
系譜
特記事項のない限り、『寛政重修諸家譜』による[5]。子の続柄の後に記した ( ) 内の数字は、『寛政譜』の記載順。
補足
- 『寛政重修諸家譜』では、光命の項に「室」(正室)の記載がない[1]。
- 三女が嫁いだ松井(長岡)家は、熊本藩筆頭家老・八代城代を務め、3万石を知行する家である[7]。営之の孫にあたる存之(家督相続前に死去)も分部家から妻を迎えている[8]。
- 二男と三男が入った三淵家は、熊本藩で5000石を給され家老を輩出する家である[9]。
- 五男の中条康永は尾張藩の中条(中條)家1500石を継ぎ、のちに名古屋城代を務めた。武道の達人で、暴れる猪を乗り伏せたという逸話があるとともに、狩野派の画にも通じたという[10]。
備考
- 大溝(現在の高島市勝野地区)で21世紀初頭も清酒醸造を続けている福井弥平商店の銘柄「はぎの露」は、創業時の藩主であった光命が「萩乃露」と命名したのが由来であるという[11]
脚注
注釈
- ^ 国民図書版では法名を「圓空慶算」とするが、新訂版は「圓天慶筭」と翻刻している(「筭」は竹かんむりに弄)。
- ^ 『寛政重修諸家譜』では11月22日[1]。
出典
参考文献
外部リンク
分部氏 大溝藩6代藩主(1731年 - 1754年) |
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