元 恭(げん きょう、498年 - 532年)は、北朝北魏の第11代皇帝(在位:531年 - 532年)。『魏書』においては前廃帝、『北史』においては節閔帝と呼ばれている。即位前の王号から広陵王とも呼ばれる。字は脩業。
生涯
孝文帝の弟の広陵王元羽と王氏のあいだの子として生まれ、正始年間に広陵王の封を継いだ。散騎常侍・給事黄門侍郎を歴任した。元叉が北魏の朝廷で権力を握ると、口が利けなくなったふりをして、龍花仏寺にひきこもった。530年、謀反の疑いをかけられ、上洛に逃れたところを捕らえられた。長らく拘禁されたが、疑いが晴れると釈放された。孝荘帝が殺害された後、長広王元曄が皇帝に擁立されたが、爾朱世隆らと疎遠になり、廃立が謀られた。長広王が邙山の南にやってきたとき、爾朱世隆らによって禅譲の礼が強行された[1]。太尉の爾朱度律が元恭を迎え、宮中に入った。531年2月、広陵王は太極前殿で皇帝として即位し、普泰と改元した。3月、長広王元曄を東海王に改封し、魯郡王元粛を太師とし、沛郡王元欣を太傅・司州牧とし、淮陽王に改封した。爾朱仲遠・爾朱天光の2人を大将軍とし、爾朱兆を天柱大将軍とし、高歓を渤海王に封じ、爾朱世隆を太保とした。
しかし、6月に高歓が信都で反爾朱氏の挙兵をし、10月には元朗(後廃帝または安定王)を北魏の皇帝に即位させた。この時には南朝梁の武帝蕭衍の支援を受けて北魏皇帝を称していた元悦も存在していたので、北魏には3人の皇帝が並び立ったことになる。532年3月に爾朱天光らが韓陵で高歓に敗れると、4月に元恭は宮廷に突入して来た高歓の兵に拘束された。当初高歓は自身の擁立した安定王の血縁が傍流である事、また広陵王自身の人柄の賢明さを理由に、安定王を廃して広陵王を復位させる事を望んだが[2]、黄門侍郎の崔㥄[3]の「広陵王が真に賢明であれば、高王(高歓)の推挙を待ってから即位したはずです。逆胡(爾朱一族)に擁立された広陵王が、どうして天子であり続けられましょうか」との反論を受け[4]、広陵王は崇訓仏寺に幽閉される事が決まった。5月、門下外省で暗殺された。
のち、西魏において節閔皇帝と追諡された。兄の元欣は西魏の大丞相となり、八柱国の一人として挙げられる。
宗室
- 『魏書』巻1~巻22、『北史』巻5・巻14を元に作成。
后妃
子
脚注
- ^ 『魏書』巻11 前廃帝紀「春二月己巳、曄進至邙南、世隆等奉王東郭之外、行禅譲之礼、群臣上表曰~」
- ^ 『資治通鑑』巻155「高歓以安定王疏遠、使僕射魏蘭根慰諭洛邑、且観節閔帝之為人、欲復奉之。」
- ^ 『資治通鑑』では「崔凌」と表記。
- ^ 『資治通鑑』巻155「凌作色曰~」
伝記資料
- 『魏書』巻11 帝紀第11
- 『北史』巻5 魏本紀第5