僧肇(そうじょう、拼音: Sēngzhào、374年/384年 - 414年[1])は、中国後秦の仏僧。鳩摩羅什門下の四哲の一人[1]。中国仏教史・中国哲学史の重要人物。
現存する著作に、道家や儒家の思想を含む論書『肇論』(じょうろん)のほか、『維摩経』の主要な注釈書『註維摩詰経』などがある。
人物
鳩摩羅什門下の「四哲」として、道生・慧観・僧叡と並び称される。鳩摩羅什からは「解空第一」(空理解の第一人者)と賞賛された。仏教史においては、仏図澄・釈道安・鳩摩羅什・廬山慧遠らと並ぶ格義仏教後の中国仏教の形成者、および、吉蔵に先立つ三論宗の祖に位置付けられる。
京兆(すなわち長安)の貧家に生まれる。出家前、傭書を生業として経史の古典に通じ、とくに老荘思想や玄学に親しむ。支謙訳『維摩経』を読んで感銘を受けたのを機に出家する。大乗・小乗の三蔵に通じ、若くして長安の学界で名を馳せる。鳩摩羅什が姑臧に来ると、同地に赴き弟子となる。以降、長安で鳩摩羅什の訳経を補佐しつつ、自著を執筆する。
生没年は、慧皎『高僧伝』では414年に31歳で没したとあり、384年生ということになる。しかしそれではあまりに早熟過ぎるなどの理由から、実際は374年生とする説もある。
著作
『肇論』
『肇論』(大正蔵諸宗部1858)は、『物不遷論』『不真空論』『般若無知論』『涅槃無名論』の4篇の論文に『宗本義』1篇が冠された論文集である[11]。論文集としてまとめられたのは、没後の南朝梁・陳においてと推定される。『涅槃無名論』と『宗本義』には偽書説がある[1]。
『般若無知論』の成立は405年前後で、『肇論』の中で最も早い。本論文は鳩摩羅什に賞賛され、同門の道生により、同時代の東晋にも伝えられた。篇末には、本論文を受容した東晋の劉遺民(中国語版)(廬山慧遠の友人)との往復書簡をまとめた『劉遺民書問』が付されている。
『涅槃無名論』は、4篇のうち最後に成立した論文で、鳩摩羅什没後、当時の皇帝姚興の求めにより書かれた。
『肇論』には、インドの龍樹『中論』などに加え、中国哲学、なかでも老荘思想や玄学の影響が随所に見られる。また、体用論に近い思想を含むことから、湯用彤は本書を体用論の先駆に位置付けたが、これには批判もある。
本書は、後世とくに陳から唐代の三論宗において重要視され、以降の禅仏教にも影響を与えた。日本にも三論宗とともに伝わったが、中国に比べ老荘が浸透していなかったためか、あまり重要視されなかった。
注釈書
後世の注釈書(末疏)として以下が現存する。
- 陳・恵達『肇論疏』
- 唐・元康『肇論疏』
- 宋・遵式『註肇論疏』
- 宋・浄源『肇論中呉集解』
- 宋・浄源『肇論集解令模鈔』
- 宋・夢庵和尚『夢庵和尚節釈肇論』
- 元・文才『肇論新疏』
- 元・文才『肇論新疏游刃』
- 明・徳清『肇論略疏』
その他、明の雲棲祩宏や紫柏真可が、随筆で本書について論じている。円仁『入唐求法目録』などには、現存しない注釈書の名が見られる。
『註維摩詰経』
『註維摩詰経[17]』(大正蔵経疏部1775)は、鳩摩羅什訳『維摩経』(『維摩詰所説経』)の注釈書である。『注維摩詰経』『注維摩』などとも表記される。
本書は僧肇自身の注釈や序文に加え、鳩摩羅什や同門の道生・道融(中国語版)の解釈も伝える。後世、『維摩経』の基本的な注釈書として受容され、現代でも参照される。
日本では、聖徳太子『維摩経義疏』で本書が参照されている。「本地垂迹」という語の初出も本書の序文に見られる[19]。
20世紀の敦煌トルファン学では、本書の僧肇単注本の写本が発見されている。
その他
その他、現存する著作に『百論序』『長阿含経序』『宝蔵論』『梵網経序』『金剛経註』『法華経翻経後記』『鳩摩羅什法師誄』がある。現存しない著作に『丈六即身論』がある。
現行の『金剛経註』は、謝霊運の佚書『金剛般若経注』がすり替わったものとする説もある。
日本語訳
研究史
日本では、1955年、塚本善隆を代表者とする京大人文研の研究班が『肇論研究』を刊行した。同班には、仏教学と中国哲学の両分野の研究者が参加したが、老荘要素の強さをめぐって意見がわかれ、とくに福永光司は老荘要素を強調した。1985年には、仏教学者の伊藤隆寿が『肇論一字索引』を刊行して研究の進展を促したが、同時に「仏教の歪曲者」として批判もした。
中国では、1930年代の湯用彤を筆頭に、盛んに研究されてきた。1960年代には唯物史観により批判されることもあった。
脚注
参考文献
外部リンク