佐竹 永海(さたけ えいかい、享和3年(1803年) - 明治7年(1874年)12月24日)は江戸時代後期から明治初めの画家。彦根藩御用絵師として井伊直弼に仕える。
名・字は周村・愛雪・篤敬。通称を衛司。号は初め盤玉、のちに衛階・永海とした。他に雪梅・天水翁・九成堂・幽室子・愛雪楼などの多くの号をもつ。会津の生まれ。
会津若松城下北小路町の蒔絵師の子として生まれる。字の周村は、雪村周継の後衛と称したことに因む。幼少の頃から地元絵師の萩原盤山に師事し、盤玉と号した。14歳にして既に作品を残している[1]。
20歳の頃、江戸に出て谷文晁の画塾写山楼に入門。文晁門下の高弟となる。
30歳の頃、独立し一家を成した。書画会や詩会に参加し当代一流の文人や有力者と交流。天保9年(1838年)、この頃までに大老井伊直亮に気に入られ彦根藩の御用絵師となっている。
弘化元年(1844年)に一時故郷の会津に滞在。以降も故郷に幾度も帰省している。
安政2年(1855年)、剃髪し得度。法橋に叙される。すぐのちに法眼に叙されている。
桜田門外の変により井伊直弼が倒れ大きな後ろ盾を失うも、井伊家との関係は明治以降も続いた。また会津の細井家や世田谷の大場家など豪商の庇護を受けその後も盛んに創作し各地に傑作を残している。
永海の画系は継嗣の永湖・その養子永稜・娘婿永邨に引き継がれる。松本楓湖も門人のひとりである。
永海は画人としては成功したが郷里では親不孝と謗りを受け、生涯で16度も妻を娶り、大酒呑みで有名。奇行の画人といわれた。享年73。谷中霊園に葬られる。
師の文晁は多角的な諸画の研究から「八宗兼学」と称されて南北合派の独自の画風を確立した。永海はその正統な継承者と位置づけられる。文人画・漢画・円山四条派・大和絵にも精通した。とりわけ大和絵に力量を発揮し代表作が多い。
出版物の挿絵も手がけ、交流のあった随筆家・山崎美成の『提醒紀談』などに挿絵を提供。明治3年出版の『横浜八景詩画』(福島県立博物館所蔵)の挿絵は代表作といわれる。
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