近江八景

近江八景(おうみはっけい)は、日本近江国(現・滋賀県)にみられる優れた風景から「八景」の様式に則って8つを選んだ風景評価(作品の場合は題目)の一つである。

  • 石山秋月いしやま の しゅうげつ] = 石山寺大津市
  • 勢多(瀬田)夕照せた の せきしょう] = 瀬田の唐橋(大津市)
  • 粟津晴嵐あわづ の せいらん] = 粟津原(大津市)
  • 矢橋帰帆やばせ の きはん] = 矢橋草津市
  • 三井晩鐘みい の ばんしょう] = 三井寺(園城寺)(大津市)
  • 唐崎夜雨からさき の やう] = 唐崎神社(大津市)
  • 堅田落雁かたた の らくがん] = 浮御堂(大津市)
  • 比良暮雪ひら の ぼせつ] = 比良山系(大津市)

の8つのこと。

※現在では「石山 秋月」などと表しもするが、旧来「の」は記さずに読む。

中国湖南省洞庭湖および湘江から支流の瀟水にかけてみられる典型的な水の情景を集めて描いた「瀟湘八景図」(北宋時代成立)になぞらえて、琵琶湖の南部から8箇所の名所を選んだものである。八景としては日本で最も初期に選定されたと言われる[1]。後の日本各地の八景にも影響を及ぼした可能性が高い、とされる[2]

由来

明応9年(1500年室町後期)に近江国に滞在した元・関白近衛政家公家)が、当地にちなんでの和歌八首を詠んだ、とする史料[3]もあるが、当時の政家の日記『後法興院記』の調査により、政家が近江に滞在して近江八景の和歌を詠んだとされる明応9年8月13日 (旧暦)(1500年9月16日)は、外出せず自邸にこもっていたことが判明している[要出典]

また、江戸後期の歌人伴蒿蹊は、慶長期の関白・近衛信尹自筆の近江八景和歌巻子を知人のもとで観覧し、その奥書に、現行の近江八景と同様の名所と情景の取り合わせに至る八景成立の経緯が紹介されている[4]。よって現在ではこの記事に基づき、現行の近江八景の成立は近衛信尹によるものとする見方が有力となっている(奥書の原本は未確認である)。

実際、政家によって近江八景が成立したとなると、室町時代に制作された近江八景図の遺例が存在してもよいのであるが、そのような作例は確認されていない。近江八景の絵画作品の登場が17世紀後期以降であることを考えると、先行すべき和歌の成立が17世紀初期であるのは自然である[独自研究?]

八景を取り入れた作品

絵画

江戸後期の浮世絵師歌川広重によって描かれた錦絵による名所絵(浮世絵風景画)揃物『近江八景』は、彼の代表作の一つであり、かつ、近江八景の代表作である。名所絵揃物の大作である『保永堂東海道五十三次』が成功を収めた後を受けて、天保5年(1834年)頃、版元・保永堂によって刊行された。全8図。

石山秋月
勢多夕照
粟津晴嵐
矢橋帰帆
三井晩鐘
唐崎夜雨
堅田落雁
比良暮雪(下絵)

文学

近江八景の地名を全て含んだ狂歌として、江戸後期の文人大田南畝が詠んだと伝わる以下の狂歌が知られている。

乗せたから さきはあわずか たゝの駕籠 ひら石山や はせらしてみゐ

→のせた(瀬田)から さき(唐崎)はあわず(粟津:あはづ)か たた(堅田)のかご ひら(比良)いしやま(石山)や はせ(矢橋)らしてみゐ(三井)

この歌は、大田南畝が京へ上ろうと瀬田の唐橋に来た時、「近江八景の題目8つの全てを31文字の歌の中に入れて詠んだら駕籠代をただにしてやる」と駕籠屋に問われ、歌ってみせたものとされている[5]。この逸話は講談によって広まり、落語近江八景』の枕となる小噺の中でも紹介される場合がある。

また、松尾芭蕉が紀行文「奥の細道」の作成のため、敦賀に立ち寄った際詠んだ句である『国々の八景更に気比の月』の「国々の八景」は「近江百景」だとされている。なお、福井県敦賀市の気比神宮の境内には、この句を含む『月清し遊行のもてる砂の上』『ふるき名の角鹿や恋し秋の月』『月いつく鐘は沈る海の底』『名月や北国日和定なき』の5句が刻まれた、「芭蕉翁月五句」の句碑がある。

箏曲

唱歌

明治33年(1900年)に大和田建樹が作詞した『鉄道唱歌』第1集東海道編では、建樹が強い関心を持っていたためか、近江八景をわざわざ歌詞を割いてまで全て歌いこんでいる。

なお、歌詞に歌いこまれた地域には、発表後しばらく経った大正時代に江若鉄道線、その後の昭和49年(1974年)に湖西線が開通している。

  • 39. いよいよ近く馴れくるは 近江の海の波のいろ その八景も居ながらに 見てゆく旅の楽しさよ
  • 40. 瀬田の長橋横に見て ゆけば石山観世音 紫式部が筆のあと のこすはここよ月の夜に
  • 41. 粟津の松にこととえば 答えがおなる風の声 朝日将軍義仲の ほろびし深田は何(いず)かたぞ
  • 42. 比良の高嶺は雪ならで 花なす雲にかくれたり 矢走(やばせ)にいそぐ舟の帆も みえてにぎわう波の上
  • 43. 堅田におつる雁がねの たえまに響く三井の鐘 夕くれさむき唐崎の 松には雨のかかるらん

その他

ギャラリー

  • 日本名勝旧蹟産業写真集 近畿地方之部(西田繁造編集、1918年発行)より

八景の現在

  • 粟津の晴嵐 - 昭和初期には500本の松が残っていたが、その後の地域開発などにより3本が残っているだけになっている[6][7][8]。大津市では枯れた時点で伐採し新たな植樹などは行わないと述べている。一方、晴嵐の名は地名や小学校名などとして使用されている。
  • 矢橋の帰帆 - 往時に船が行きかった水域は1970年代から開始された琵琶湖総合開発事業にともない埋め立てられ、下水処理場や公園が整備された。埋立地の名称「矢橋帰帆島」に名残をとどめている。
地図
近江八景地図

その他

  • 近江八景を描いた屏風絵、「近江八景図」が吉村孝敬によって作られた(寛政11年(1799年)作)。同作は右隻と左隻に近江八景を4ヵ所ずつ描いたものであり、野洲市歴史民俗博物館が所蔵している[9]

脚注

  1. ^ 改訂新版 世界大百科事典, デジタル大辞泉,精選版. “八景(ハッケイ)とは? 意味や使い方”. コトバンク. 2024年5月29日閲覧。 “日本では慶長・元和(1596-1624)のころからしだいに人口に膾炙(かいしや)しはじめた。最初にいいだされた八景は近江八景といわれ,京都円光寺の長老が近江に蟄居しているとき,中国の瀟湘(しようしよう)八景になぞらえたものという。”
  2. ^ 日本における「八景」について~景物の歴史的変遷を中心に~”. 筑波大学図書館情報メディア系/大学院図書館情報メディア研究科. 20204.5.29閲覧。
  3. ^ 吉田元俊編 『扶桑名勝詩集』 延宝8年(1680年
  4. ^ 『閑田筆耕』 寛政2年(1790年
  5. ^ 秋廼屋望成編『蜀山狂歌叢談』求光閣、明治43年(1910年)、58頁。
  6. ^ 消える近江八景の松…戦前500本、今や3本”. 読売新聞オンライン. 読売新聞 (2015年12月19日). 2023年8月18日閲覧。[リンク切れ]
  7. ^ 近江八景「粟津晴嵐」の立ち枯れで切られた松を見てきた”. おおつうしん. 高橋諒(大津商工会議所青年部 地域活性委員会(※平成30年度大津商工会議所青年部(大津YEG)委員会組織表(PDF)より)). 2018年7月29日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年8月18日閲覧。
  8. ^ 新近江名所圖会 第96回 近江八景-粟津晴嵐の地を訪ねる”. 滋賀県文化財保護協会. 2023年1月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年8月18日閲覧。
  9. ^ 近江八景図屏風”. 野洲市. 2023年2月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年8月18日閲覧。

関連項目

外部リンク