会津征伐
会津征伐(あいづせいばつ)は、慶長5年(1600年)に徳川家康によって行われた会津の大名上杉景勝征伐のことである。上杉征伐、会津攻めとも称される。この会津征伐が関ヶ原の戦いの幕開けとなった。 発端まで慶長3年(1598年)、豊臣秀吉が死去。秀吉から生前、嫡子・豊臣秀頼が成人するまでの間、政治を託された徳川家康が台頭する。秀吉死後の家康の動向を以下にまとめる。
このように家康は諸大名の屋敷を頻繁に訪問したが、この訪問は他の大老・奉行には無断で行われており、豊臣政権の法令の一つ「傍輩のうち、その徒党を立つべからず」に反するものであった。 また家康はこの時期、他の大老・奉行に無断で諸大名との縁組を行っている。その縁組は次の通り。
これは豊臣政権の法令の1つ「諸大名の無許可での縁組の禁止」に違反する行為であったため、慶長4年1月19日、豊臣氏から無断婚姻の問罪使として三中老(生駒親正・中村一氏・堀尾吉晴)らが派遣された。家康は追及をかわし、2月2日に前田利家らと誓書を交わすことで和睦した。 しかし閏3月3日、利家が死去。同日、かねてから石田三成と対立関係にあった加藤清正・福島正則ら七将が、三成の大坂屋敷を襲撃した(石田三成襲撃事件)。三成は事前に襲撃を知り、佐竹義宣の助力を得て伏見城内の自邸に逃れる。なお家康邸に逃げ込んだとするのは根拠のない俗説である。その後、家康は仲裁に乗り出し、仲裁の結果、三成は五奉行から退隠、佐和山城に蟄居となる。
その後、家康は豊臣氏の蔵入地を諸大名に分け与えた。
発端家康の政治的影響力が強まる中、五大老の一人・上杉景勝は家臣の直江兼続に命じて神指城を築城させるなど軍事力の増強に乗り出す。この景勝の動向は、近隣の大名である最上義光や堀秀治らによって家康に報告されていた。 慶長5年3月11日、家康と景勝の関係の修復に努めていた藤田信吉が上杉家から追放される。 4月1日、家康は景勝に対して伊奈昭綱、河村長門(増田長盛の家臣)の両名を問罪使として派遣。このとき家康は西笑承兌に弾劾状をしたためさせている。その内容は景勝の軍事力増強を咎め、異心が無いのであれば誓書を差し出した上で上洛し、弁明すべきというものである。 これに対して兼続は直江状を家康に送っている。以下はその一部である。
5月3日、直江状が家康の下に届けられ、家康は同日、景勝の征伐を決する。会津征伐の先鋒は福島正則、細川忠興、加藤嘉明が任じられた。伏見城の留守には家康の家臣・鳥居元忠が任じられた。 会津征伐の決定を受けて、前田玄以や長束正家らによって征伐の中止が嘆願されたが、家康は容れなかった。また、石田三成は家康からの逗留の依頼を拒否している(三成に関しては挙兵の準備とする説もあるが、この段階で挙兵を考えていたかを疑問視して単に征伐の中止を求めた行動とする説もある)[1]。 経緯
家康が会津に出征して畿内を留守にした間、7月2日に宇喜多秀家が出陣式を行い、7月17日に三成が大谷吉継や毛利輝元らを糾合して挙兵する。家康はその時はまだ江戸城にいた。
三成らの挙兵を知った家康は直ちに会津征伐を中止、小山評定を開いて今後の対応を協議する。そして景勝に対しては結城秀康の軍勢を抑えとして残し、家康は反転西上して三成らの討伐に向かった。一方の景勝もこれを受けて後顧の憂いを絶つため出羽の最上義光を攻略することに方針を転換する(慶長出羽合戦)。このため徳川軍と上杉軍が直接対決することはなかった。 意義上杉家の挙兵には、城地と領民を一元的に支配していた戦国大名の性癖を克服できず、新たな領国(会津)の経営に執着する余り、家康統治の新体制への対応をなおざりにするという政局認識の甘さが結果的に政策優先順位の錯誤を生み、会津征伐を起こされる羽目に陥らせたと指摘されている[2]。 脚注
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