仙台 四郎(せんだい しろう、グレゴリオ暦1855年頃 - 1902年頃)は、江戸時代末期(幕末)から明治時代にかけて、現在の宮城県仙台市に実在した人物で、「人神」としても祀られている[3]。旧字体を用いて「仙臺四郎」とも書く。
本名は通説では芳賀 四郎であるが、親族によれば「芳賀 豊孝」[1][2]。
経歴については不明な点も多い[3]。
知的障害があり会話能力は低かったが、明治期に「四郎自身が選んで訪れる店は繁盛する」との迷信が南東北のマスメディアを巻き込んで流布し、売上増を企図する店舗等が四郎の気を引こうと厚遇した[3]。
没後の大正期に入ると、仙台市内にあった写真館が「四郎の写真を飾れば商売繁盛のご利益がある」と謳って写真販売を始めた[3]。商売繁盛のご利益は、存命中においては四郎の意志に依拠したが、写真による偶像化以降、(死没した)四郎の意志とは無関係になり、グッズを購買すればご利益が得られると転換された。1920年(大正9年)からの戦後恐慌以降、繰り返し発生する不景気において四郎のブームが度々発生し、商業神の稲荷神やえびす、あるいは、土着の松川だるまを凌駕して仙台で信仰され、さらには全国的に知られる福の神として定着した[3]。
現状では民間信仰において神として崇められる一方、神であるか不明なキャラクター化も進んでおり、四郎が神と人との間で揺れ動く人神となっている。神としてのグッズ展開がある一方で、仙台市都心部の密教系仏教寺院ではキリスト教におけるサンタクロース姿にさせて飾ったり、仙台初売りや一般企業の広告ではキャラクターとして使用されたり、四郎の風貌やエピソードを設定として用いて、芝居の興行をする俳優、コントをするお笑い芸人、芸能活動をするローカルタレントが現れたりもしている。
江戸時代から1880年代まで、北一番丁勾当台通の角、旧・宮城県庁構内郵便局の場所に火の見櫓があり[4]、北一番丁通りを挟んで北向い(現・青葉区役所辺り)は少なくとも19世紀中は「櫓下」と呼ばれていた(北緯38度16分8.3秒 東経140度52分13.6秒 / 北緯38.268972度 東経140.870444度 / 38.268972; 140.870444 (19世紀に「櫓下」と呼ばれていた辺り))[5]。この「櫓下」には戦国時代の伊達政宗の代より伊達氏(仙台藩)に仕えた砲術師を祖とする鉄砲鍛冶職人・芳賀家[6]があり、その四男として生まれたとされる[1][5]。そのため「櫓下四郎」とも呼ばれた[5]。
四郎の知的障害は生まれつきという説と、7歳の時、花火見物中に誤って広瀬川に転落して溺れて意識不明となったことが原因という説がある。言葉についても「バヤン(「ばあや」の意)」など限られた言葉しか話せなかった説と、普通に会話も出来たとする説とがある[2]。
その後、四郎は気ままに市中を歩き回るようになった。行く先々で食べ物や金品をもらったりしていたが、人に危害を及ぼすことはなく、愛嬌のある風貌をしていたので、おおむね誰からも好かれた。子供が好きで、いつも機嫌よく笑っていたという。「四郎馬鹿(シロバカ)」などと陰口を叩かれることもあったが、不思議と彼が立ち寄る店は繁盛し人が集まるようになったため、「福の神だ」などと呼ばれてどこでも無料でもてなされたとされるが[3]、ただし、実際には家族が後に支払いに回っていたこともあった。店にしてみれば、どんなに高額な飲食でも、必ず後で代金を支払ってもらえる上客と解釈できる存在であったという側面もある。四郎は素直な性質であったが、気に入らない店には誘われても決して行かなかったという[3]。
鉄道を好んでいたようで、1887年に東北本線の仙台駅・塩竈駅が開業すると、仙台の停車場を毎日のように訪れ、人に切符代を恵んでもらい白石や白河まで乗車したが、所持金が無いため降りた先で運賃の不足分を払えず鉄道側が困っているという記事が河北新報に載ったという[3]。更に福島や山形まで足を伸ばしていたらしい[3]。
四郎は1902年(明治35年)頃に須賀川にて47歳で死んだとされるが[7]、これにも諸説あり、はっきりしたことは分かっていない[3]。徘徊中にそのまま姿を消したという説もある。釜山港漫遊中との新聞記事が掲載されたことがあるが、信憑性は不明である[8]。昭和期に入っても目撃談があったとされる[9]。なお、墓の場所も不明である[3]。
明治時代には、千葉一が30歳頃の四郎を福島で撮影した写真が焼き増しされて販売されていた。大正に入る頃に、福島より仙台に移り仙台市内で開業した千葉写真館を千葉一が「明治福の神(仙臺四郎君)[10]」と銘打ってこの写真を絵葉書等に印刷し売り出した[3]。この時から「仙台四郎」と呼ばれるようになった。
現在残っている写真は上記の一種類だけである。この写真に写る四郎は、縞模様の和服に懐手をして笑っており、言い伝え通りに膝を丸出しにしているなど、四郎の人と為りをよく捉えたものと言える。
この写真をオリジナルとして、肖像画家による作品が2つと、鉛筆画が1つ、計4つあり、それぞれらの複製の段階で細部の違いもできたりしたため、さらに幾つかの版の存在を確認できる[11]。(平成5年のブーム後にはさらに増えた)。着物がはだけていないように見える物から、中には膝の奥に男根がそのまま写っているものまで有り、幅広い職種の如何を問わず、彼が福の神として厚く慕われて来た何よりの証拠ともなっている。
また、ものの古さから昭和初期と見られる仙台四郎の人形もある。(これは昭和50年以降につくられたこま屋の仙台四郎の人形よりも古いものである。)
江戸時代より仙台では、商売繁盛を願う縁起物として松川だるま(仙台だるま)があり、「七転八起」に因んで8体を並べて飾り、毎年1体を買い求めた替わりに1体をどんと祭等においてご神火で燃やすという風習があった[12]。松川だるまは中心部などで開催されていた「歳の市(仲見世)」で買い求めるのが一般的であったが、高度経済成長期にあたる昭和40年頃に歳の市(仲見世)は行われなくなり[† 1]、主要な販路が寺社の祭事での出店に変化した[12]。また、支店経済都市である仙台では、中心部商店街の小売店がテナントビル化し、松川だるまを知らない東京や海外に本拠を置く店子が主に路面店として入るようになり、松川だるまの風習が衰退していった[12]。
ここに、写真や人形など様々なグッズ展開をした仙台四郎のブームが発生し、仙台における商売繁盛の縁起物の地位が、神棚に並べ場所をとる松川だるまから、店内での置き場所に自由度が高く場所をとらない仙台四郎へと取って代わられることになる[12]。
仙台市内の飲食店では、神棚、レジ脇などに、仙台四郎の写真や置物を見ることができる。土産屋などでは、様々な四郎人形がおいてある。なお、仙台の流行り神としては、他に定義如来と仙台幸子がある。
仙台四郎は民間信仰であるため本来寺社とは関係ないが、仙台四郎を合わせて祀る寺社がある。
以下は仙台四郎を題材にした作品。
このほかに、BSフジのバラエティ番組「東北魂TV」において、仙台四郎をパロディにした、「仙台五郎」(富澤たけし)と「仙台六郎」(狩野英孝)が登場するコントシリーズ『商売繁盛』がある。また、かつて仙台のお笑いコンビ・ハンプティダンプティのあべだいちが、コンビ解散後にアリティーヴィーの営業担当となった頃から「平成の仙台四郎」と名乗っている[30][31]。
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