井関 仭(いせき みつる、1888年(明治21年)12月12日 - 1956年(昭和31年)4月2日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
経歴
1888年(明治21年)に兵庫県で生まれた。陸軍士官学校第22期、陸軍大学校第31期卒業。1933年(昭和8年)に陸軍砲兵大佐進級と同時に独立山砲兵第1連隊長に就任し、1935年(昭和10年)に参謀本部防衛課長に転じた。二・二六事件が発生した際には、戒厳司令部第1課長としてその対処に当たった。1937年(昭和12年)10月30日に免軍令部部員の辞令が出ている[4]。
同年11月に陸軍少将に進級し、野戦重砲兵第3旅団長に就任。1939年(昭和14年)に陸軍野戦砲兵学校長を経て、1940年(昭和15年)8月に陸軍中将に進級と同時に第36師団長に親補され、日中戦争に出動。百団大戦での反撃戦、中原会戦、陵川作戦、沁河作戦などで大なる戦果を収めた。1943年(昭和18年)2月28日に参謀本部附となり、4月15日に予備役に編入された。
11月5日に召集され、留守第52師団長となる。1945年(昭和20年)3月31日に東北軍管区兵器部長に転じ[6]、7月5日に関東軍総司令部附を経て[7]、7月16日に第134師団長に親補された。
栄典
- 勲章
脚注
参考文献