中野 寛次(なかの かんじ、1930年? ー 2000年8月14日[1])は日本の音響監督、吹替演出家である。東北新社に所属し、日本音声製作者連盟の理事長を務めていた。
経歴・人物
東京都出身[2]。旧制市立一中(現:千代田区立九段中等教育学校)卒業後は鎌倉アカデミアに学び、新劇の世界へ飛び込む[2]。だが、芝居だけでは生活できなくなり、1957年に太平洋テレビジョンへ入社しプロデューサーの仕事を行う[3]。
太平洋テレビ退社後はフリーを経て、東北新社に入社し吹替演出家へ転身。後に外画部長となり、様々な作品で演出として活躍する[2][3]。
1980年代からは難聴のため演出家としての活動は減っていった[3]一方、以前から行っていた声優や翻訳家、演出家の養成に尽力するなど後身の育成に力を入れていた[2]。
2000年8月14日に死去。70歳没[2]。
池田昌子については「高校生のころから知っている」と語り、共に芝居をするなど交友があった[3]。また、若本規夫を声優業界に入れたのは中野の功績による[4]。
沢田敏子は中野とその演出ついて「とても読み込みの深い、高い完成度を求める方」と述べている[5]。天野真実は「養成所時代に私がひたすら追いかけた方で、人としても監督としても優れた、真の『先生』でした」と語り、亡くなる直前には養成所の新人声優へ向けて「報われるとは限らぬ茨の道だが、選んだのなら頑張りなさい」と遺言を遺したという[6]。
参加作品
テレビアニメ
- 1966年
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- 1970年
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- 1978年
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- 1980年
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- 1981年
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吹き替え
映画
テレビドラマ
出演
脚注
- ^ 安達成彦 (2000年8月21日). “中野寛次先生のご冥福を祈念する”. 雑記帳. なるなるぅ ちゃんぷるぅ. “安達成彦ホームページ『THE AQUARIUS STUDIO』. 2005年2月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年12月14日閲覧。
- ^ a b c d e 柴田耕太郎『翻訳家になろう!』青弓社、2012年。ISBN 4787233351。
- ^ a b c d テレビ朝日『映画はブラウン館の指定席で―淀川長治と『日曜洋画』の20年』全国朝日放送、1986年、40-41頁。ISBN 4881310798。
- ^ “拳に想いをこめて、40年声優界の大ベテラン 若本 規夫さん”. 早稲田ウィークリー. 2020年8月1日閲覧。
- ^ 沢田本人のツイート (2019年4月8日) - Twitter
- ^ 天野本人のツイート (2018年10月6日) - Twitter
関連項目
外部リンク